第5話 雨宿り
アスファルトから立ち上る熱気が、校門を出た瞬間に全身を包み込んだ。
先ほどまでの快晴が嘘のように、西の空には墨を流したような積乱雲が急速にせり出している。
「あちゃー……これ、降るね。しかも相当すごいやつ」
恵比寿が額に手をかざして空を仰いだ。
彼女の予感は的中し、言葉が終わるか終わらないかのうちに、大粒の雨が地面を叩き始めた。
パラパラという音は一瞬で激しい轟音へと変わり、世界は白いカーテンの向こう側に隠されていく。
「衣、こっち! 急いで!」
腕を引かれ、私たちは駅前へと続く商店街のアーケードに滑り込んだ。古い屋根が雨を弾く低い音を響かせる中、肩を上下させて息を整える。
「……びしょ濡れ」
「ほんとだ。衣、前髪が張り付いてて、いつもよりさらに美少年(イケメン)度が上がってるよ」
「……揶揄わないで」
私は顔を背け、湿った制服の袖を絞った。
薄いブラウスが肌に張り付く感覚が不快で、眉を寄せる。恵比寿もまた、自慢のポニーテールがぐっしょりと濡れ、首筋に髪がまとわりついていた。
「この雨じゃ、しばらく動けないね。
……あ、あそこ行かない? 昔からあるケーキ屋さん。ここのアーケードの奥にあるの」
恵比寿が指差したのは、昭和の香りが残る小さなお菓子屋だった。ショーケースの明かりが、雨の暗がりにオレンジ色の温かな光を投げかけている。
暖簾をくぐるように店に入ると、甘く、香ばしいバターの匂いが私たちを包み込んだ。外の激しい雨音は遠ざかり、代わりに古い冷蔵庫が低く唸る音と、柱時計の規則正しい刻みが耳に届く。
「いらっしゃい。あらあら、ひどい雨に降られちゃったね」
奥から出てきた店主の老婆が、手慣れた様子で清潔なタオルを二枚差し出してくれた。
「ありがとうございます。……衣、これ使いなよ」
恵比寿から渡されたタオルは、柔軟剤ではない、日光で乾かしたような素朴な匂いがした。
私はそれで丁寧に髪を拭き、水滴を拭い去る。
隣では恵比寿が「ふぅ」と一息つきながら、自分の首元を拭いていた。
「……衣、こっち向いて」
ふいに、彼女の手が私の頬に伸びてきた。
タオルの端で、私の耳の後ろに残っていた水滴を、彼女がそっと拭き取る。指先が微かに肌に触れる。その感触が、雨で冷えた身体にはあまりに熱くて、心臓が跳ねた。
「……自分でする」
「いいじゃん。私、衣のお世話するの好きなんだよ。なんか、珍しい猫を拾ったみたいで」
彼女は冗談めかして笑うけれど、その瞳はひどく真剣で、射抜くような光を湛えていた。
私は逃げ場を失い、ただ彼女のされるがままになる。甘い香りが充満する店内で、私たちは小さなテーブルを挟んで座った。
注文したホットミルクと一切れのシンプルなパウンドケーキが運ばれてくる。
白い湯気の向こう側で、恵比寿はカップを両手で包み込み、慈しむように一口啜った。
「……ねえ、衣」
「ん」
「さっき、屋上で『隠れ家にしていい』って言ったの、本気だからね」
カップを置いた彼女の視線が、私の指先に落ちる。
「衣といると、自分が特別な存在じゃなくてもいいんだって思えるの。寿恵比寿じゃなくて、ただの私でいても、衣はきっと何も言わずに隣にいてくれるでしょ?」
私は、フォークを置いて彼女を見た。その通りだ。
私は彼女に輝いていてほしいと思っているけれど、それは彼女が陽キャだからではない。
ただ、彼女がそこにいてくれるだけで、私の世界の色調が変わるからだ。
「……私は、恵比寿が黙ってても、面白くなくても……別にいい」
言葉を選びながら、ゆっくりと紡ぐ。
「恵比寿が笑えない時は、私が……何もしないで、横にいる。それだけなら、私にもできる」
恵比寿の表情が一瞬だけ止まった。
それから、彼女はこぼれるような笑みを浮かべ、机の上で私の手をぎゅっと握りしめた。
「……最強だね、それ。私、それだけで一生生きていけるかも」
冗談だ。そう分かっていても、私の胸の奥は、これまでにないほど激しく波打っていた。
外では雨が上がり始め、雲の切れ間から夕刻の光が差し込み始めている。濡れた路面が反射して、アーケードの中に虹色の光の粒が舞い込んだ。
「あ、止んだね」
恵比寿が名残惜しそうに手を離した。
その温もりが消えた場所が、ひどく熱を持ったまま疼いている。
店を出ると、空気は雨に洗われて澄み渡っていた。
駅へ向かう道すがら、私たちはどちらからともなく、いつもより少しだけゆっくりと歩いた。
「ねえ、明日、衣の家に行ってもいい? 今日のお礼に、今度は私が何かお菓子作るよ」
「……お礼って、何もしてない」
「ううん。衣がそこにいてくれたのが、最大のお礼。……ダメかな?」
上目遣いで覗き込まれ、私は断る術を知らなかった。
「……散らかってるけど、それでもいいなら」
「やった! 約束だよ!」
彼女は弾むような足取りで改札へと向かう。
揺れるポニーテールが、夕陽を浴びてキラキラと輝いていた。私はその背中を見送りながら、自分の胸に手を当てた。
甘い香りの逃避行は終わったけれど、私の日常は、もう二度と元には戻らない。
彼女という光が、私の深い影を、少しずつ、けれど確実に溶かし始めていた。
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