第4話 お弁当
昨日までの長雨が嘘のように、空は抜けるような青に塗り替えられていた。
湿り気を吸い込んだ校舎が太陽に炙られ、微かにアスファルトの匂いが立ち上っている。
「ね、衣! 今日はお弁当、屋上で食べようよ。絶対気持ちいいから」
恵比寿はそう言って、いつの間にか結び直した髪を揺らした。湿気で広がるのが嫌だからと言って彼女が作ったポニーテールは、歩くたびに生き物のように弾み、彼女の快活さを際立たせている。
普段は施錠されているはずの屋上への扉だが、この学校の屋上は昼休みだけ解放される。
重い鉄扉を押し開けると、遮るもののない日差しが容赦なく降り注いだ。
「……眩しい」
「あはは、衣は本当に日陰が似合うんだから」
恵比寿は眩しそうに目を細めながら、フェンスのすぐそばにあるコンクリートの段差に腰を下ろした。私もその隣、彼女が作るわずかな影に滑り込むようにして座る。眼下には、部活動の掛け声や、遠くを走る車の走行音が微かに聞こえる。
地上から切り離されたこの場所は、教室よりもずっと、二人だけの境界線がはっきりとしている気がした。恵比寿が広げたお弁当箱の中身は、彼女らしく彩り豊かだ。一方で、私のそれは母が詰めてくれた地味な茶色が並んでいる。
「あ、それ美味しそう。卵焼き、交換しよ?」
「……いいけど。普通だよ」
「その普通がいいんだってば」
彼女は器用に箸を使い、私の卵焼きを自分の口へ運んだ。
「んー! 出汁が効いてて最高。衣、これ自分で焼いたの?」
「……まさか。お母さん」
「そっか。いつか衣が焼いたのも食べてみたいな」
さらりと言われた言葉に、喉の奥が熱くなる。
いつか。そんな不確かな未来の話を、彼女はいつも当然のことのように口にする。
私の明日にも、その先にも、彼女がいることが前提であるかのように。
私は俯いたまま、箸で白米を突いた。
「……恵比寿は、どうして私なの」
言葉にしてから、しまったと思った。
あまりに直球すぎて、重すぎる問い。
けれど、昨日図書室で触れ合った手の熱が、私にこの問いを許してしまったのかもしれない。
恵比寿は咀嚼を止め、空を仰いだ。
ポニーテールの先が風に吹かれてさらさらと踊る。
「どうして、かぁ……。最初はね、衣がすごく綺麗だったからだよ」
「……見た目のこと?」
「それもあるけど、なんというか、静かだったから? ほら、私の周りっていつも音が溢れてるでしょ? でも、衣の周りだけは、しんとしてて、深呼吸ができる気がしたの」
彼女は膝を抱え、遠くの街並みを見つめた。
「私、みんなの『恵比寿ちゃん』でいることに、たまに疲れちゃうんだ。笑って、盛り上げて、期待に応えて。でも衣は、私が黙ってても怒らないし、無理に笑わなくても隣にいてくれる」
それは、私が彼女を隠れ蓑にしているのと同じくらい、利己的で、切実な理由だった。
私たちは互いに、自分に欠けている欠片を相手の中に見つけ、それを吸い込むことでどうにか立っていられるのだ。
「……私も、同じ」
私は、膝の上に置いた自分の手に視線を落とす。
「恵比寿がいれば、私は『変な人』じゃなくて『クールな人』でいられる。恵比寿が私の代わりに世界を繋いでくれるから……私は、私でいられる」
告白にも似た吐露。
自分たちの関係が、純粋な友情や親愛だけでできているわけではないことを、白日のもとに晒す作業。
嫌われるかもしれない、という恐怖が背筋を伝う。
けれど、恵比寿は小さく笑った。
「あはは、やっぱり私たち、似た者同士なんだね」
彼女はひょいと立ち上がり、フェンスに背を預けて私を見下ろした。逆光のせいで表情はよく見えないけれど、揺れるポニーテールの輪郭が、黄金色の光を帯びて輝いている。
「ねえ、衣。これからも私のこと、隠れ蓑にしていいよ。その代わり、私も衣のことを、私の隠れ家にしてもいい?」
隠れ蓑と隠れ家。
一方的に守られるのではなく、互いの足りない部分を差し出し合って、一つの形を作る。
それがどれほど歪な関係だとしても、今の私には、それが一番心地よい絆に思えた。
「……契約成立?」
「うん。契約成立!」
恵比寿は子供のように無邪気に笑い、私の手を取って立ち上がらせた。
繋がれた手は、昨日の図書室の時よりもずっと力強く、確かな重みを持っていた。
予鈴のチャイムが、遠くで鳴り響く。
私たちはどちらからともなく手を離し、埃っぽい階段室へと足を向けた。
扉を閉める直前、私は最後にもう一度だけ、青すぎる空を振り返った。
屋上の境界線を越えて、日常という戦場へ戻る。
隣を歩く彼女のポニーテールが揺れるのを見ているだけで、私はもう少しだけ、自分という名前を愛せるような気がした。
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