第3話 図書室

六月の雨は、時として世界を水槽の中に閉じ込めたような静けさをもたらす。

アスファルトを叩く単調な音は、校舎を包む防音壁のようになって、放課後の喧騒を遠ざけていた。


「ねえ、今日は図書室に行かない? 雨、結構ひどくなっちゃったし」


恵比寿の提案に、私は短く首を縦に振った。

駅前のカフェのような華やかさもいいけれど、本来の私は、こういう埃と古い紙の匂いが漂う場所の方が性に合っている。


放課後の図書室は、数人の受験生が筆記用具を走らせる音だけが響く、沈黙の聖域だった。

私たちは窓際の一番端にある二人掛けの席を陣取った。恵比寿は棚から適当に選んできたであろう、表紙の可愛らしい絵本のような画集を広げ、私は読みかけの文庫本を開く。


窓の外では、灰色に煙る景色の中で紫陽花が項垂れていた。時折、稲光のような白光が、雲の奥で爆ぜるけれど、雷鳴までは届かない。


「……衣、何読んでるの?」


恵比寿が囁き声で訊ねてくる。

図書室という空間がそうさせるのか、彼女の声もいつもより低く、耳の奥に心地よく響いた。


「……少し古い、短編集。言葉が、綺麗だから読んでる」


「へえ、衣らしいね。私にも、少しだけ読ませて?」


彼女は、椅子を少しだけ私のほうに寄せた。

木製の床がギギッと小さな音を立て、私たちの肩が触れ合う距離になる。


私は黙って、本を真ん中に置いた。

一頁の中に並ぶ、静謐で、どこか寂しげな言葉の列。恵比寿はそれを、まるで宝探しでもするように丁寧に視線で追っている。


ふと、彼女の長い睫毛が震えた。

彼女は自分の膝の上で、所在なげに指先を動かしている。普段、あんなに饒舌に世界と関わっている彼女が、この静寂の中ではどこか心細そうに見えた。


「……どうしたの」


「……あ、ううん。なんかね、静かすぎると、自分の心臓の音が大きく聞こえる気がして」


恵比寿は困ったように笑い、少しだけ首を傾けた。


「私、黙るのが苦手なんだ。黙ってると、自分がどこかに消えちゃいそうで。だからいつも、どうでもいいことばかり喋っちゃう」


それは、彼女が初めて見せた、太陽の裏側の陰りだった。明るく振る舞うことが、彼女の生存戦略なのだとしたら、彼女もまた、私と同じように寿恵比寿という名前を必死に演じているのかもしれない。


私は、開いた本の端を指でなぞった。

何か、彼女を安心させるような言葉を、私の拙い語彙の中から探し出そうとする。

けれど、言葉はやっぱり喉の奥で渋滞して、外には出てこない。


代わりに、私は机の上に置かれた彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。私の指先は少し冷えていたけれど、恵比寿の手は驚くほど熱を持っていた。


「……!」


恵比寿が小さく息を呑むのがわかった。

彼女の指が、私の指を拒むことなく、むしろ縋るように絡めてくる。肌と肌が触れ合う場所から、彼女の鼓動がダイレクトに伝わってきた。

早鐘を打つような、けれど確かに生きている、熱いリズム。


「……ここに、いるから」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。恵比寿は私の手を見つめたまま、ゆっくりと深く息を吐き出す。

そして、今度は自分から、私の手のひらを包み込むように握りしめた。


「うん……そうだね。衣がここにいてくれる」


彼女の顔が、ゆっくりとこちらを向く。

至近距離で見つめ合う形になり、私は逃げ場を失った。彼女の瞳の中に、動揺している自分の顔が映り込んでいる。


「衣の手、ひんやりしてて気持ちいい。……ずっと、こうしててもいい?」


「……本が、読めない」


「あはは、そうだよね。じゃあ、片手ずつね」


恵比寿はそう言って、繋いだ手を机の下へ隠した。

秘密を共有するようなその仕草に、私の顔が熱くなる。外の雨足はさらに強まり、図書室の窓を激しく叩き始めたけれど、不思議ともう怖くはなかった。


私たちはそれから、閉館のベルが鳴るまで一言も交わさなかった。

ただ、机の下で繋がれた手だけが、言葉よりも饒舌に、互いの存在を確認し合っていた。


重たい扉を開けて廊下に出ると、冷ややかな空気が頬を撫でる。繋いでいた手を離した場所が、やけに風通しが良すぎて、私は少しだけ寂しさを覚えた。


「……帰ろう」


「うん。……ねえ、明日もまた、ここで本読まない?」


恵比寿は、もういつもの明るい笑顔を取り戻していた。けれど、その瞳の奥には、私だけが知っている静かな熱がまだ残っている気がした。


私は、雨に濡れた中庭を見据え、小さく頷く。

二人を隔てていた透明な壁が、少しだけ薄くなったような、そんな六月の放課後だった。

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