第2話 駅前
放課後の校舎に、終業を告げるチャイムが長く尾を引いて響き渡る。湿り気を帯びた六月の風が、開け放たれた窓から入り込み、私の机の上に置いていたノートの端をパラパラと捲った。
「衣、準備できた? 行こう駅前!」
恵比寿の声は、沈みがちな放課後の教室でも一段と高く、澄んで聞こえる。
彼女は自分の鞄を肩にかけると、私の席のすぐ横までやってきて、さも当然のように私の筆箱を鞄に仕舞うのを手伝い始めた。
「……自分でする」
「いいのいいの、急がないとお目当ての席、埋まっちゃうかもしれないし」
彼女の指先が、私の指に微かに触れる。
その瞬間、心臓がトクンと小さな音を立てる。
私は慌てて視線を逸らし、手早く鞄のジッパーを閉めた。駅前へ続く道は、部活動に向かう生徒や帰宅を急ぐ人波で溢れていた。
いつもなら、この人混みというやつが私にとっては天敵だ。向けられる無遠慮な視線、ひそひそと交わされる品定めの声。それらから逃げるように、私はいつも歩幅を大きくして歩いてしまう。
けれど、今日は違う。
私の左側を歩く恵比寿が、防波堤のようにそれらの視線を遮ってくれているからだ。
「あ、見て衣! あそこの紫陽花、もうあんなに咲いてるよ」
「……ほんとだ」
「衣の髪の色みたいだね。あ、違うか。衣の髪はもっと……夜の色だもんね」
恵比寿はそう言って、私の黒髪に手を伸ばそうとして、ふと踏みとどまった。
彼女の指が空中で少しだけ迷い、それから気恥ずかしそうに自分の耳たぶを触る。
そんな彼女の些細な仕草が、私の胸をざわつかせた。
駅ビルの中に新しくオープンしたカフェは、平日だというのに若い女性客で賑わっていた。
看板には、恵比寿が言っていた『期間限定:海老のクリームリゾットパンケーキ』の文字。
正直、甘いものなのか食事なのかよく分からないそのメニューに、私は内心で首を傾げる。
「いらっしゃいませ! 二名様ですか?」
店員の明るい声に、私は反射的に一歩、恵比寿の背後に隠れた。
「はい! 窓際の席、空いてますか?」
恵比寿が迷いのない笑顔で応対する。
彼女の後ろ姿を見つめながら、私はいつものように自分の情けなさを噛み締めていた。
彼女がいなければ、私はこの店の敷居を跨ぐことすらできなかっただろう。
席に着くと、恵比寿はメニューを広げて目を輝かせた。
「やっぱりこれだよね、海老。衣はどうする? 甘い方がいい?」
「……同じので、いい」
「えっ、意外! 衣、こういう変わり種、嫌いかと思ってた」
「……恵比寿が、食べるなら」
そう、彼女が選ぶものなら、きっと間違いはない。
それは味のことだけではなく、この場所も、この時間も、すべて。料理が運ばれてくるまでの間、恵比寿は、今日あった出来事をまるでお伽話でも話すように楽しく語ってくれた。
数学の先生のチョークが折れたこと、中庭に猫が迷い込んでいたこと。
私にとっては、ただ通り過ぎていく景色でしかない日常が、彼女の言葉を通すと、色鮮やかな物語に変わっていく。
「……恵比寿は、すごいね」
ふと、そんな言葉が口を突いて出た。
「え? 何が?」
「……誰とでも、楽しそうに話せる。私とは、正反対」
恵比寿は少しだけ目を見開き、それからふわりと、いつもの太陽のような笑顔を収めて、少しだけ大人びた表情を見せた。
「そんなことないよ。私だって、本当はドキドキしてることあるんだから」
「……恵比寿が?」
「うん。でもね、衣が隣にいてくれるから、私は私でいられるんだよ。衣が静かに聞いてくれるから、私は安心して喋れるの。だから、正反対なのは、きっとちょうどいいんだよ」
ちょうどいい。その言葉が、私の乾いた心に染み込むように広がっていった。
私は、彼女を利用しているだけだと思っていたけれど、彼女もまた、私の存在に何かを感じてくれているのだろうか。
運ばれてきた『海老と衣』のリゾットパンケーキは、驚くほど調和の取れた味がした。
濃厚なクリームを纏った海老の旨味と、それを優しく包み込むパンケーキの生地。
相反するような要素が、一つの皿の上で溶け合っている。
「おいしいね、衣」
「……うん。おいしい」
私は一口ずつ、丁寧に味わう。
彼女と一緒に食べるこの味を、忘れないように。
店を出る頃には、空は深い群青色に染まっていた。
駅の改札前。別れの時間が近づく。
「今日は付き合ってくれてありがとう、衣。また明日、学校でね」
恵比寿が手を振る。
私は、その背中に向かって、今日一番の勇気を振り絞った。
「……恵比寿」
「ん?」
足を止めた彼女に、私は視線を泳がせながら、小さな声で告げる。
「……明日も、一緒に、行こう。移動教室」
恵比寿の顔が、ぱあっと輝いた。
それは、今日見たどの景色よりも眩しくて、美しかった。
「もちろん! 約束だよ、衣!」
彼女は大きく頷き、駆け出すようにして改札を抜けていった。一人残されたホームの端で、私は自分の左手の指先を、右の手のひらでそっと握りしめた。
そこにはまだ、彼女の言葉が、残した温もりが、微かに宿っているような気がした。
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