海老と衣

空落ち下界

第1話 運命

名は体を表すとはよく言ったものだ。

私・戌亥衣(いぬい ころも)は、その名の通り、何かを纏っていなければ人前に立つことすらおぼつかない人間だ。


幼い頃から、私の外見は中身を置き去りにして勝手に一人歩きをしていった。カラスの濡れ羽色をそのまま写したような硬い直毛の黒髪を短く整え、少しばかり目つきの鋭い切れ長の瞳を持っていたせいで、周囲は私を「孤高だ」とか「クールだ」とか、そんな言葉の額縁に収めたがった。


けれど、その額縁の中にある実像は、ただの空洞だ。誰かに話しかけようとすれば喉の筋肉が強張り、最適な言葉を選んでいるうちに時間は過ぎ去り、結局は一言「……別に」と、突き放すような音を漏らすのが精一杯。人見知りと口下手。

それが私の正体だった。


中学の頃までは、この黙っているだけで勝手に神格化されるという現象にひどく怯えていた。

期待された言葉を返せない自分に失望されるのが怖くて、さらに口を閉ざす。するとまたミステリアスというレッテルが厚くなる。

その悪循環から私を救い出してくれたのが今、私の隣で楽しげに世界を彩っている存在だった。


「衣、おはよ! 今日も髪、ツヤツヤだね。何かいいシャンプーに変えた?」


教室の入り口。朝の騒がしい空気の中に、ひときわ透明度の高い声が響く。


寿恵比寿(ことぶき えびす)。

彼女もまた、その名の通りの人間だった。

七福神の一柱を思わせるような、福々しくも愛らしい笑顔。周囲にいる人間を無条件で幸福な気分にさせてしまう、天性の陽キャ。


彼女が私の隣にいるだけで、私の無口は、恵比寿の話を静かに聞く慈愛へと変換される。

彼女が私の代わりに世界と交渉してくれる。

私は、彼女という眩い光の影に潜むことで、ようやく呼吸を整えることができるのだ。


「……おはよう、恵比寿。シャンプーは、いつもと同じ」


「そっかぁ。じゃあ、衣の素材がいいんだね、きっと。あ、見て見て! この消しゴム、昨日駅前で買ったんだけど、可愛くない?」


恵比寿は、私の机に身を乗り出し、小さな苺の形をした消しゴムを差し出してきた。

彼女の制服から、ふんわりと柔軟剤の清潔な香りが漂ってくる。

窓から差し込む六月の朝の光が、彼女の明るい茶髪を透かして、机の上に柔らかな輪郭を作っていた。

私は、その消しゴムをじっと見つめ、人差し指の先で少しだけ触れる。


「……少し、使いづらそう」


「あはは! 正解! 全然消えないのこれ。でも可愛いからいいんだよ」


彼女はケラケラと笑い、私の隣の席に腰を下ろした。その瞬間、それまで私たちを遠巻きに眺めていたクラスメイトたちの視線が、恵比寿というフィルターを通してこちらに流れ込んでくる。


「えびっちゃん、また変なもん買ってるの?」


「聞いてよー、衣にもダメ出しされちゃった」


恵比寿を中心にして、会話の輪が自然と広がっていく。私は、その輪の端っこで、ただ頷いたり、時折短く相槌を打ったりするだけでいい。


誰も私に高度なコミュニケーションを要求しない。恵比寿がそこにいて、私と楽しそうに笑っているという事実だけで、私はこの場所の一部として認められる。なんて都合のいい"隠れ蓑"だろう、と自分でも思う。


彼女の明るさに甘え、彼女の優しさを盾にして、私は、面倒な人間関係の摩擦を回避している。

けれど、時々、申し訳なさが胸の奥で小さな棘のようにチクリと刺さることもある。


一限目の数学が始まると、先生のチョークが黒板を叩く乾いた音が、静まり返った教室に響く。

私はノートを取りながら、斜め前に座る恵比寿の背中を盗み見た。

彼女は真面目に授業を聞いているようで、実はペン先でノートの端に小さな落書きをしている。


私にしか見えない彼女の隙。その背中に向かって、心の中でだけ言葉を投げかけてみる。


(恵比寿、私みたいなのといて、退屈じゃない?)


もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。

言えば、彼女はきっと「何言ってるの? 衣と一緒にいるのが一番楽しいよ」と、何の衒いもなく答えるだろうから。

その眩しさに耐えられるほど、私の心は強くなかった。



休み時間。廊下へ出ると、案の定、他クラスの女子生徒が私の方をちらちらと見ていた。


「ねえ、あの人やっぱりかっこよくない?」

「一組の戌亥さんでしょ」


そんな囁き声が聞こえる。


私は反射的に俯き、歩調を速めようとした。


「衣、ちょっと待ってよ。歩くの早いってば」


後ろから恵比寿が駆け寄り、自然な動作で私の制服の袖を掴んだ。

それだけで、外からの視線は衣への関心から、衣と恵比寿の仲睦まじい様子へとスライドしていく。


「……ごめん。急いでるわけじゃ、なかったんだけど」


「もう、すぐどっか行っちゃうんだから。迷子になっちゃうでしょ?」


「……迷子には、ならない」


「私が、だよ。衣がいないと私、誰に今日のお昼休みのメニュー相談すればいいかわかんなくなっちゃうもん」


恵比寿はそう言って、私の顔を覗き込み、いたずらっぽく笑った。

彼女の瞳には、いつも私が映っている。

隠れ蓑として利用しているはずの彼女に、私はいつの間にか、心の一番柔らかい部分を握られているような気がして、少しだけ怖くなる。



放課後。雨はいつの間にか上がり、窓の外には濡れたアスファルトが夕陽を反射して、オレンジ色に輝いていた。部活動のない私たちは、校門へと続く道を並んで歩く。


「ねえ衣。駅前に新しくできたパンケーキ屋さん、今度行ってみない?

期間限定で海老のクリームリゾットパンケーキっていう、よくわからないメニューがあるらしくて」


「……海老?」


「そう。私の名前、恵比寿(えびす)だから、なんか親近感湧いちゃって」


彼女は自分の名前を指差して笑う。

その笑顔があまりに屈託なくて、私は少しだけ、本当に少しだけ、唇の端を緩めた。


「……海老と衣、か」


「え? 何か言った?」


「……別に。何でもない」


海老を包み込む衣。

私たちは、名前の組み合わせからして、こうなる運命だったのかもしれない。

サクサクの衣が海老の身を守るように、あるいは海老の旨味が衣に染み込むように。

私は、彼女という太陽の影で、今日も静かに息をする。いつか、この隠れ蓑を脱ぎ捨てて、自分の足で彼女の隣に立てる日が来るのだろうか。

今はまだ、彼女の袖を掴み返すことすらできない私だけれど。


「明日も、晴れるといいな」


恵比寿が空を見上げて呟いた。

私はその横顔を見つめ、今日一番の、そして今日唯一の、私の意志がこもった言葉を口にする。


「……そうだね」


言葉は空気に溶けて消えたけれど、恵比寿は嬉しそうに私の肩に自分の肩をぶつけてきた。

そのささやかな衝撃が、ひどく心地よかった。

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