第7話

街は、少しずつ顔を覚えさせてくる。


朝の市場で挨拶を交わす声、同じ時間にすれ違う荷運びの男、いつも同じ角で立ち話をしている老夫婦。宿に戻るころには、名前を知らない相手の癖まで分かるようになる。挨拶の間、歩幅、声の高さ。こちらが意識しなくても、情報は積み上がる。


食事を共にする機会が増えた。


宿の卓は、自然と人が集まる。パンをちぎり、スープを回し、椀を置く音が重なる。酒は出るが、こちらは口をつけない。断らない。否定もしない。ただ、飲まない。理由は言わない。理由を問われる前に、話題が移る。


「最近、眠れなくてな」


誰かが言う。声は軽い。だが、軽さの下に疲れがある。


相槌を打つ。目を合わせ、合わせすぎない。肩の力を抜く。相手が話し切るまで、間を置く。途中で遮らない。助言を挟まない。評価をしない。


「……そういう日も、ありますね」


短く、低く。断定ではない。否定でもない。


相手は、続きを話す。仕事のこと、家のこと、金のこと。言葉が揃っていなくても、気にしない。揃える必要がない。話し終えたとき、相手は深く息を吐く。軽くなった顔だ。


「聞いてくれて、ありがとう」


礼は、こちらのものではない。相手の中で完結している。だから、受け取らない。


「いえ」


それだけでいい。


宿に戻ると、エリスがいる。帳面を抱え、客の対応に追われ、合間に洗い物をしている。手が空いたとき、こちらは自然に動く。桶を運び、薪を割り、床を拭く。頼まれていない仕事ほど、角が立たない。


「本当に……助かります」


彼女はそう言う。声に、感謝と戸惑いが混じる。申し訳なさが、後から追いかけてくるのが分かる。


「構いません」


言い切る。理由は添えない。理由を添えると、負担になる。


彼女は、少しだけ目を伏せる。唇を噛み、すぐに笑顔に戻す。その切り替えが、以前より遅くなっている。こちらを信頼している証拠だ。同時に、借りを感じ始めている。


関係は、深まっている。


夕方、暖炉の火を整えていると、彼女が隣に立つ。距離が近い。だが、踏み込んでいない。声は小さい。


「……今日は、忙しくて」


言い訳だ。誰に対するかは、言わない。


相槌を打つ。にこやかに。促さない。だが、続けていい空気を作る。


「昼に、常連さんが言ってて。私、もっと……」


言葉が途切れる。自分で首を振る。


「いえ、何でもないです」


ここで、追わない。追うと、逃げる。


「そうですか」


それだけだ。沈黙を置く。沈黙が、彼女のほうから崩れる。


「……私、ちゃんとできてますか」


声が震える。確認だ。答えを求めているが、断定を怖がっている。


表情を作る。口角をわずかに上げ、眉を柔らかく。目を笑わせる。相槌を打つ前の、短い間。息を整える音が、彼女に伝わる。


「分かりません」


あえて、そう言う。


彼女は驚く。だが、否定されたとは感じていない。


「ただ」


続ける。声を少しだけ強める。


「できていない人は、こういう問い方をしません」


間を置く。言葉が沈むのを待つ。


「できているかどうかを気にする人は、たいてい、もう十分にやっています」


付け足す。


「……と、私は思います」


逃げ道を残す。彼女が自分で選ぶ余地を残す。


彼女は、目を見開き、次に、ゆっくりと瞬きをする。価値観が、また少し揺れる。頬に赤みが差し、視線が下がる。


「そう……なんでしょうか」


「分かりません」


繰り返す。だが、否定ではない。


「少なくとも、ここは回っています」


暖炉の火を示す。宿の音を示す。現実を指す。


彼女は、しばらく黙る。呼吸が落ち着き、肩が下がる。


「……ありがとうございます」


その言葉には、以前より重みがある。感謝と同時に、申し訳なさが混じっている。関係は、もう一段階深いところに来ている。


夜、ベッドに横になり、天井を見上げる。


街の人間関係は、線でつながり始めている。エリスを中心に、宿から広がる。食事、会話、相談。こちらは名乗らない。役割も持たない。ただ、そこにいる。


エリスは、信頼している。だから、申し訳なさを感じる。申し訳なさは、距離を縮める。返したい、という感情を生む。返す先は、こちらだ。


計画は、静かに進んでいる。


焦る必要はない。時間は、味方だ。

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