第6話
時間は、何もしなくても過ぎていく。
だが、何もしないように見せながら、同じことを続けるのは意外と難しい。朝は早すぎず、遅すぎずに起きる。食事は質素に、残さず。酒は取らない。廊下に落ちた木屑を拾い、誰にも頼まれていない桶を運び、割れてはいないが歪んだ椅子を黙って直す。
本来、客がやる必要のないことばかりだ。
だが、頼まれていないからこそいい。善意に見え、労働に見え、そして“性格”に回収される。理由を問われない行動は、最も疑われない。
彼女は最初、戸惑っていた。次に、遠慮した。最後には、何も言わなくなった。
「すみません、そんなことまで……」
そう言う声は、だんだん小さくなる。代わりに、ありがとう、が増える。ありがとうは、借りではない。感情だ。感情は、返済されない。
ある日の午後、宿に客の少ない時間帯が訪れた。昼と夕の境目。暖炉の火は落ち着き、外の光は傾いている。
彼女はカウンターの内側で、帳面を閉じた。肩を回し、深く息を吐く。その仕草は、誰にも見られていないと思っているときのものだ。
この距離で見ると、彼女の容姿は派手さとは無縁だった。顔立ちは整っているが、目を引くほどではない。むしろ、どこにでもいそうで、だからこそ安心感がある。肌は日に焼けすぎていないが、屋内仕事だけの白さでもない。宿の仕事で日に当たる時間と、室内で過ごす時間が半々だと分かる色だ。
目は薄い茶色で、光を受けると少しだけ金色が混じる。大きくも切れ長でもなく、感情がそのまま浮かぶ。疲れると伏せられ、驚くと素直に見開かれる。眉は自然な形で、意識して整えた様子はないが、だからこそ表情の変化が分かりやすい。
髪は淡い亜麻色で、普段は後ろで一本にまとめられている。肩甲骨の下まで伸びているが、手入れに時間をかけているわけではない。結び目から逃げた数本が頬にかかり、忙しいときほどそれが増える。今も一本、耳にかけ忘れたままになっていた。
服装は実用一点張りだ。くすんだ色のワンピースに、使い込まれたエプロン。布地は丈夫だが新しくはない。繕い跡がいくつかあり、どれも丁寧だ。飾りはない。指輪も首飾りもない。誰かに見せるための服ではなく、今日を回すための服だ。
立ち姿は少し前かがみで、無意識に人より低い位置に自分を置く癖がある。それでも、背筋が完全に曲がることはない。踏ん張ってきた時間の長さが、姿勢の奥に残っている。
「……少し、休みますか」
こちらからは言わない。だが、そう言われる位置に、立っている。
「え?」
驚いたように顔を上げる。目は、薄い茶色。強くも鋭くもない。だが、よく動く。人の顔色を見る癖が、そのまま残っている目だ。
「大丈夫です。慣れてますから」
慣れている、という言葉の裏にあるものを、彼女自身は言語化しない。
「そうですか」
それだけ言い、近くの椅子に腰を下ろす。距離は保つ。視線は、帳面ではなく、彼女の手元に置く。視線を合わせないのは、逃げではない。安心だ。
沈黙が落ちる。気まずくならない沈黙。
彼女が、先に折れた。
「……その、最近は」
声が少し低い。仕事用ではない。
「いろいろ、重なってしまって」
相槌を打つ。早すぎず、遅すぎず。
「ええ」
それだけだ。続きを促さない。促されていると、感じさせる。
「宿は……父が残してくれたものなんです」
声が揺れる。だが、泣かない。泣く手前で止める癖がある。
「借金も、ですけど」
また、相槌。
「そう、でしたか」
評価しない。可哀想だとも言わない。事実だけを、受け取る。
彼女は話す。最初は断片的に。母を早くに亡くしたこと。父が酒に溺れ、最後は病で倒れたこと。宿を畳む選択肢を、何度も考えたこと。だが、考えるたびに、止めてきたこと。
話すうちに、彼女の表情は少しずつ緩む。眉間の皺が消え、肩の力が抜ける。唇の端が、無意識に上がる。声の速度が一定になる。安心している証拠だ。
相槌は、感情の節目で打つ。迷いが言葉になる瞬間。自責が顔を出す直前。
「……それで、私が、ちゃんとできていないんじゃないかって」
「ええ」
短く。肯定ではない。否定でもない。
「もっと、上手くやれる人がいるんじゃないかって」
ここだ。
彼女は、こちらを見る。助けを求めている目ではない。確認だ。この考えを、口に出していいのか。
にこやかに、視線を受け止める。口角を少し上げる。目も笑う。緊張を解く。
「……分かりません」
あえて、言う。
彼女が、瞬きをする。
「分からないことも、あります」
少しだけ、声を強める。
「すべてを一人で背負っている人が、ちゃんとできていないのかどうかは」
言葉を選ぶ。断定しすぎない。だが、曖昧にも逃げない。
彼女の顔に、驚きが浮かぶ。価値観が、わずかに揺れた表情だ。目が大きくなり、唇がわずかに開く。その変化が、そのまま感情だ。
「ただ」
間を取る。沈黙を、意図的に置く。
「人は、自分がやれていないことばかりを数える癖があります。できていることは、当たり前になってしまう」
語り出す。ここからが、こちらの番だ。
「宿が続いていること。客が戻ってくること。ここが、誰かにとって安心できる場所であること。それは、偶然ではありません」
彼女の呼吸が、浅くなる。集中している。
「全部、あなたが選んできた結果です。疲れているから、見えなくなっているだけです」
言い切る。だが、すぐに付け足す。
「……と、私は思います」
逃げ道を残す。反論させないための余白。
彼女は、言葉を失っている。驚きと、納得が混じった顔だ。唇が、わずかに開く。
「そんなふうに、考えたこと……」
「ありませんか」
問いかけではない。確認だ。
彼女は、首を振る。
「……なかったです」
声が、少し震える。
「でも……」
言いかけて、止まる。自分で考え始めている。もう、こちらが押す必要はない。
しばらくして、彼女が小さく笑った。その笑顔は控えめで、声を出すことすら遠慮しているようだが、目元は確かに緩んでいる。
「すみません。長々と……」
「いえ」
即答する。
「話せて、よかったように見えました」
彼女は、驚いたようにこちらを見る。次に、照れたように目を伏せる。頬に、ほんのりと赤みが差す。
「……はい」
沈黙が、今度は柔らかい。
「そういえば」
彼女が思い出したように言う。
「まだ、お名前を伺っていませんでした」
来た。自然な流れだ。理想的なタイミング。
「パウロ、パウロ・インシピエンスです」
発音は、簡単で、どこにでもある。だが、意味を知る者には、別の響きを持つ名前。
「パウロ……さん」
彼女は、ゆっくりと繰り返す。覚えやすいと判断した声だ。
「私は、エリスです。エリス・ハルヴェイン」
名前と共に、少しだけ胸を張る。誇れるものではないが、捨ててもいない人生の重みが、そこにある。
「エリスさん」
一度だけ、呼ぶ。呼び捨てにしない。距離を保つ。
彼女は、ほんの少しだけ頬を赤らめた。
火が、暖炉の中で弾ける音を立てた。外では、誰かが通りを歩いている。
こちらの内側で、確信が形になる。
時間をかければ、確実だ。彼女は、もうこちらを疑わない。むしろ、疑えない。
優越感に似た感情が、静かに広がる。高揚はない。ただ、予定どおりだという感覚。
「……また、話してもいいですか」
彼女が、恐る恐る言う。
「ええ」
にこやかに、頷く。
「いつでも」
言わない。聞く、と。
だが、彼女には、そう聞こえただろう。
この街で、最初の繋ぎは、もう手の中にある。
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