第5話

朝は、音より先に匂いで始まった。


階下から立ち上る、温い湯と焼いた穀物の匂い。木の床がきしむ音。扉の開閉。誰かが一日を始めている気配が、天井越しに伝わってくる。目を開けると、昨夜絞ったままの暖炉の火が、赤い芯だけを残して生きていた。


体を起こす。頭は冴えている。吐き気も、眩暈も、もうない。残っているのは、知識の重みだけだ。重いが、扱えない重さではない。


身支度を整え、ローブの皺を軽く伸ばす。鏡はないが、必要ない。見せたい像は決まっている。急がず、階段を下りる。足音は一定に。忍ばせない。誇示もしない。


カウンターの向こうで、彼女が帳面を広げていた。昨夜よりも表情が柔らかい。寝不足は相変わらずだが、肩の力が抜けている。


「おはようございます」


先に声をかける。低く、落ち着いた声。朝に合う。


「あ、おはようございます」


顔を上げ、すぐに笑う。作っていない笑顔だ。


「昨夜は、よく休めました」


事実だけを伝える。感謝は含めない。安心だけを渡す。


「それなら、よかったです」


一拍、間を置く。ここだ。


「少し、ご相談しても?」


“話を聞く”とは言わない。“相談”という言葉も、軽く置く。


彼女は頷き、帳面を閉じた。


「はい、どうされましたか?」


「しばらく、この街に滞在することになりそうで」


声の調子は変えない。決定事項として伝える。迷いを見せない。


「長め、ということですか?」


「ええ。できれば、部屋をこのまま」


彼女の眉が、わずかに動く。計算が始まる合図だ。


「……どのくらい、でしょう」


「一月分を、先に」


懐から袋を取り出す。紐を解く音を立てない。中身を、掌に移す。銀貨が、数枚。朝の光を受けて鈍く光る。庶民の生活には、十分すぎる量だ。


カウンターの上に置く。並べない。積みもしない。ただ、まとめて。


彼女の動きが止まる。


目が、一瞬、硬貨に落ちる。すぐにこちらを見る。その往復が、早い。


「……こちら、全部、ですか?」


「はい」


短く、肯定する。


「え、えっと……」


言葉を探している。嬉しさと戸惑いが混じっている。拒む理由はない。だが、軽々しく受け取っていい額でもない。


「足りないようでしたら、言ってください」


逆だ。足りないことはない。だが、そう言うことで、こちらが主導権を持つ。


「い、いえ、十分すぎます……」


声が少し上ずる。だが、次に出たのは、笑顔だった。


「ありがとうございます。……助かります」


両手で、そっと硬貨を集める。大切なものを扱う動きだ。彼女の背中が、ほんの少しだけ軽くなる。分かる。金の重さが、頭から一瞬外れた顔だ。


「ご無理のない範囲で、お願いします」


無理、という言葉を使う。こちらが配慮している構図を作る。


「はい。もちろんです」


彼女は、はっきりと頷いた。これで、関係は一段深くなる。


朝食を運ばれ、席に着く。彼女は時折こちらを見る。視線は探るものではない。確認だ。信頼が、少しずつ形になる。


食べながら、考える。


宿は、街の結節点だ。人が来て、人が去る。噂が集まり、愚痴が溜まる。彼女は、それを受け止める立場にいる。否定せず、聞くだけで疲弊する役目だ。


まずは、彼女だ。


掌握、という言葉は使わない。必要ない。彼女がこちらを“安全”だと認識すれば、それでいい。金はそのための道具ではない。時間と一貫性が、本体だ。


彼女を通じて、人は集まる。自然に。頼まずとも。こちらが“ここにいる”だけで。


皿を置き、立ち上がる。


「しばらく、お世話になります」


頭を下げる。深すぎない。対等を装う角度。


「こちらこそ」


彼女は、少し照れたように笑った。


部屋に戻り、扉を閉める。ベッドに腰を下ろす。外の音が、遠くなる。


計画は、もう動き始めている。静かに。確実に。


この街は、悪くない。

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