第4話

街は、音でできていた。


石畳を打つ靴底の乾いた音、荷車の軋み、遠くで呼び合う声。風に混じって、焼いた穀物と獣脂の匂いが流れてくる。人の流れは急がず、立ち止まり、また動く。ここは通過点ではない。生活がある。


通りの角を曲がったところで、宿の看板が目に入った。派手ではない。木の板に簡素な意匠。読みやすい文字。古すぎず、新しすぎない。入口の前には、掃き清められた跡がある。細かいところに手が回っている。


扉を押す前に、息を整える。急がない。迷っていない顔。ここに来るのが初めてでも、初めてに見えないように。


扉が軋み、温い空気が流れ出す。暖炉の匂いだ。中は明るすぎず、暗すぎない。客は少ない。昼と夜の間の時間帯らしい。


カウンターの向こうで、若い女が顔を上げた。


動きが止まる。ほんの一瞬。目が合い、すぐに微笑みに切り替わる。その切り替えが、少しだけ遅い。疲れている証拠だ。


「いらっしゃいませ」


声は高くない。張りもあるが、無理をしていない。相手を試さない声色だ。


こちらは帽子を取る。深くは下げない。軽く、頭を下げる。


「一泊、お願いできますか」


断定。余計な言葉は足さない。視線は逸らさず、凝視もしない。姿勢はまっすぐだが、胸を張らない。


彼女は帳面を引き寄せ、頷く。


「はい。空いています。お一人ですか?」


「ええ」


「お食事は……」


「できれば。簡素なもので構いません」


簡素、という言葉を選ぶ。豪華を求めない。拒まない。選択肢を奪わない。


「分かりました」


彼女の肩が、ほんの少し下がる。緊張が抜けた動きだ。


料金を聞き、即座に支払う。前払い。銀貨を一枚、迷いなく。過不足がない。数えさせる手間を省く。金貨は出さない。銅貨を混ぜない。音を立てず、手のひらで渡す。


「先に、お願いします」


「……ありがとうございます」


礼は軽く。受け取った事実だけを受け取る。


鍵を受け取り、部屋の場所を聞く。覚えやすい説明だ。説明が終わるまで、口を挟まない。最後に頷く。


「助かります」


それだけ言って、背を向ける。視線を引きずらない。振り返らない。


部屋は二階。階段の段差は均一で、踏み外しにくい。廊下は清潔だ。扉を開けると、暖炉がある。火は入っていない。薪が整然と積まれている。手間をかけている。


扉を閉め、鍵をかける。荷を置き、ローブを緩める。まず、暖炉だ。


火打ち石を打つ。火花が散り、乾いた薪に火が移る。最初は小さく、すぐに安定する。火の音が、部屋の空気を変える。ここは安全だ、と体が理解する。


ノックがあり、食事が運ばれてくる。木の皿に、パンと温かいスープ。湯気が立つ。量は多くない。ちょうどいい。


「どうぞ」


彼女は皿を置き、少し離れて立つ。距離を保っている。押しつけない。


「ありがとうございます」


声を低く、柔らかく。感謝は短く。評価はしない。


彼女は一度だけ会釈し、部屋を出る。その背中は、少しだけ軽く見えた。


椅子に腰を下ろし、食べ始める。酒はない。頼んでいない。スープは薄味だが、体に染みる。パンは硬すぎない。よく噛む。音を立てない。


考える。


この街は、規模がちょうどいい。人の流れがあり、顔が覚えられる前に入れ替わる。貨幣は銅が中心。現物も通る。宿は中立だ。相談は集まる。疲れた人が多い。話を聞く余地がある。


まずは、ここにいる。急がない。住み着くつもりで、住み着かない顔をする。手伝えることがあれば、黙ってやる。頼まれたら断らない。頼まれる前に名乗らない。


食事を終え、皿を下げに来た彼女に、もう一度だけ言う。


「暖かい食事でした」


事実だけを伝える。褒めない。彼女は一瞬、目を丸くしてから、照れたように笑った。


「……よかったです」


声が、少し柔らかくなる。


夜になる。ベッドは清潔だ。横になる。火は落とさない。消えかける程度に絞る。完全な暗闇は作らない。


天井を見上げる。木目が走っている。規則的で、不規則だ。


ここに住もう。


思いつきではない。計算だ。ここなら、疑われない。ここなら、裁かれない。ここなら、影響は静かに残る。


目を閉じる。眠りは、すぐに来た。

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