第3話

足の裏に、確かな感触があった。


硬い。冷たい。ざらついている。石だ。地面だ。さっきまで存在しなかったはずの重さが、一気に全身に戻ってくる。重力が、遅れて仕事を始めたみたいに、内臓を下に引っ張った。


同時に、頭の内側が爆ぜた。


理解するより先に、流れ込んでくる。言葉、文字、数、概念、発音、意味、宗教、歴史、慣習、貨幣、暦、距離、身分。止まらない。選別されない。整理されない。濁流だ。脳という器に、無理やり川を流し込まれている感覚。


焼ける。


神経が、一本ずつ焦げついていくのが分かる。ニューロンが過負荷で悲鳴を上げ、つながりが乱暴に書き換えられていく。考えようとすると、考える前に次の情報が割り込んでくる。自分の思考が、上書きされていく。


吐き気が、一拍遅れてやってきた。


胃がひっくり返る。喉の奥が熱くなる。視界が白く跳ね、足元の石が遠ざかる。膝が崩れ、反射的に地面に手をつく。その拍子に、こらえきれなくなった。


吐いた。


胃の中のものを、容赦なく。酸っぱい液体が口から溢れ、石の上に広がる。鼻に刺さる匂いで、さらに吐き気が増す。体が勝手に痙攣する。呼吸が浅く、速くなる。


動悸が、耳の内側で鳴っている。心臓が、仕事を忘れたかのように暴れている。早い。速すぎる。胸が痛い。息を吸っているはずなのに、空気が足りない。


ふざけるな。


言葉にならない悪態が、頭の奥で渦巻く。あの女。あの笑顔。あの軽さ。この仕打ちが、冗談の延長だとでも思っているのか。


視界が揺れる。空は、青い。見慣れた青ではない。濃く、深く、どこか無遠慮だ。雲の形が違う。風の匂いも違う。土と草と、鉄の気配が混じっている。


時間が、少しずつ戻ってくる。


鼓動が、まだ速いが、一定になってきた。吐き気は波のように引いていく。頭の中の濁流は、完全には止まらないが、形を持ち始める。意味が、意味として収まっていく。


呼吸を整え、唾を飲み込む。喉が痛い。口の中が苦い。


「……クソ女神」


声に出すと、少しだけ楽になった。誰も聞いていない。聞いていたとしても、構わない。ここでは、文句を言う相手がいない。


体を起こす。膝が少し笑うが、立てないほどではない。服に目を落とす。


見慣れないが、見覚えのある格好だ。長いローブ。色は落ち着いた灰と白の中間。派手さはないが、粗末でもない。布は厚く、縫製は丁寧だ。袖口に、控えめな模様。意味を持たせすぎない、宗教的な意匠。


胸元には、革の紐で吊るされた小さな本。手に取ると、ずしりと重い。正典。中身を開かなくても分かる。文字が読める。意味が流れ込んでくる。知らないはずなのに、知っている。


腰には、小さな袋。中を確認する。硬貨の音がする。金属の重み。金貨はない。銀貨が数枚。あとは、大銅貨と小銅貨。庶民が日常で使う量だ。多すぎない。少なすぎない。ちょうどいい。


他に、余計なものはない。武器もない。装飾品もない。よくできている。疑われない。目立たない。


自分の手を見る。知らない手だ。年を重ねた男の手。指は長く、節くれ立っていない。爪は整っている。皮膚に、働きすぎの荒れはない。だが、弱くもない。


顔に触れる。髪は短すぎず、長すぎず。整えられているが、作り込まれてはいない。鏡がないのが惜しいが、想像はつく。知的に見える顔。優しそうに見える顔。判断を急がない顔。


名前が、必要だ。


ここでは、名前がないと不便だ。呼ばれないのは楽だが、完全に名を捨てるのは効率が悪い。覚えやすく、どこにでもありそうで、意味を深く掘られにくいもの。


頭の中で、いくつか転がす。響き。発音。書きやすさ。宗教的な連想。知性と、愚かさの距離。


決まる。


自分でも、少しだけ笑いそうになる名前だ。意味を知っている者がいれば、眉をひそめるかもしれない。だが、知っている者は少ない。知っていたとしても、口には出さないだろう。名乗る本人が、それを承知で使っているようには見えないからだ。


いい。これでいい。


空を見上げ、周囲を見回す。道らしきものが、遠くに続いている。人の気配はないが、完全な荒野ではない。誰かが通る。街がある。宿がある。


まずは、歩く。


足を前に出す。石を踏みしめる感触が、今度ははっきりと伝わる。重力は、もう裏切らない。


一歩、踏み出す。


ここからだ。

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