第2話
落ちた、という感覚はなかった。衝突も、浮遊もない。気づいたときには、足元がなく、上下の概念がなく、音も匂いも温度もない場所に立っていた。立っている、と認識できるのが不思議なくらい、空間は曖昧だった。白でも黒でもなく、何色かと聞かれても答えられない。輪郭だけが、適当に置かれている。
呼吸はできる。鼓動もある。痛みはない。重さもない。意識は澄んでいる。状況を整理するには、十分だ。
「やっほー」
声がした。背後でも前方でもなく、頭の横からでもない。空間そのものが喋った、という表現が一番近い。軽い。弾む。場違いなくらい元気だ。
振り向くと、いた。
一目で分かる。あれは、そういう存在だ。説明の必要がない。異常なまでに整った顔立ち、寸分の狂いもない左右対称、光を集めているような肌。体の線は滑らかで、視線を向けるだけで情報が溢れてくる。完璧、という言葉が陳腐になるほどの完成度だった。
そして、その完璧な顔で、彼女は舌を出していた。
「えへっ」
首を傾げ、片目をつぶり、指でピースを作っている。ポーズが古い。いや、古いという概念すら超えている。可愛い、という評価が追いつく前に、アホっぽさが先に来る。
「……」
「なにその顔。引いてる? 引いてるよね。わかるわかる、初対面だし」
自分で言って、自分で頷いている。動きがいちいち大きい。無駄にキレがいいのに、目的がない。視線が合うと、にやっと笑う。その笑顔は、どこまでも無邪気で、どこまでも浅い。
「ここ、どこだと思う?」
「……分かりません」
「でしょー! 正解! ここはね、謎の空間でーす」
胸を張る。なぜか誇らしげだ。説明になっていない。
「あなたは……」
「あ、自己紹介いる? いるよね。えーっと、わたしは女神。はい拍手ー」
自分で拍手をしている。音は鳴らないのに、満足そうだ。
「女神、ですか」
「そうそう。よく分かったね。やっぱ分かるよね、この美しさ。どう? どう? やばくない?」
顔を近づけてくる。距離感がない。完璧な造形が、無遠慮に視界を占拠する。思わず目を逸らすと、彼女はそれを勝利と勘違いしたらしい。
「でしょでしょ。分かっちゃうよねぇ」
「……質問しても?」
「いいよー。三回までね。嘘つくから」
「嘘は……」
「冗談冗談! たぶん!」
たぶん、で済ませるところが怖い。
「私は、死んだ、という認識でいいですか」
「うん!」
即答だった。
「え、即答?」
「うん。綺麗に死んだねー。あ、綺麗って見た目の話じゃなくて、タイミング的な意味ね。中身はまあ、うん」
言葉を濁し、指でくるくると空をかき混ぜる。
「ここに呼ばれた理由は」
「それはねー、面白そうだったから!」
「……」
「ちょ、その無言やめて。ちゃんと理由あるから! 一応! 一応ね!」
一応、が二回出た。
「君、さ。なかなかいい生き方してたじゃん」
「そうでしょうか」
「うん。うまかった。とっても。だから、ご褒美あげよっかなーって」
ご褒美、という言葉が、軽すぎる。
「……拒否権は?」
「ない!」
満面の笑みだった。
「はい次! 次の話題いこ! あ、加護あげるね」
「待ってください。話が飛びすぎでは」
「飛ぶよー? だって飛ばすもん」
指を鳴らす。音はしないが、気配が変わる。
「詐欺師の加護!」
「……詐欺師、ですか」
「うん。ぴったりでしょ。ねえねえ、自覚ある?」
「自覚、というほどでは」
「えー。まあいいや。効果の説明する?」
「お願いします」
「やだ!」
即答だった。
「やだって……」
「だって説明するとつまんなくなるじゃん。察してよ。察するの得意でしょ?」
否定できない。
「で、それで、次!」
彼女はくるっと回り、指で前方を指す。前方と呼べる方向が、急に定義された。
「異世界、行ってもらいまーす」
「話が」
「長いとダレるから!」
「……行き先の詳細は」
「中世っぽい! 剣とか魔法とか! エルフとか! あと王様いる!」
雑だ。
「準備は」
「してあるしてある。言葉も文字も知識もドーンって入れとくから」
「体は」
「いい感じの大人! はい決定!」
こちらの返事を待たない。
「質問、残り一回だよー」
「……あなたの目的は?」
女神は一瞬だけ考える素振りを見せて、すぐに笑った。
「暇つぶし!」
胸を張る。清々しいほどだ。
「君がどうなるか、見たいだけ。面白そうだし」
「……」
「なにその目! やめてよ! 神様だって遊ぶでしょ!」
遊びの規模が違う。
「じゃ、いってらっしゃーい!」
「待ってください、心の準備が」
「大丈夫大丈夫! どうせいつも準備してないでしょ!」
その瞬間、足元が消えた。いや、足元という概念ごと、剥がされた。
「ちょ、ちょっと待っ――」
視界が、ひっくり返る。音が遠ざかる。女神の笑顔だけが、最後までくっきりと残った。
「次はちゃんと楽しんでねー!」
その声を最後に、空間は弾けるように消えた。
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