第4話

 ミナは鏡の前で、もう一度だけ自分を見た。


 布は柔らかく、色は淡い。飾りは控えめなのに、王城の空気に負けていない。——負けていない、と思ってしまうこと自体が、怖い。


 胸の奥で、噂の囁きがまだ動いている気がする。


 陛下が拾った少女。

 陛下が囲っている少女。

 陛下が——


 ミナは頭を振った。


 考えるな。考えると、逃げたくなる。逃げたら、また倒れる。倒れたら、また拾われる。拾われたら、また受け取る。


 ……もう、逃げ道がない。


「ミナ様」


 セラが扉の近くで声をかけた。


「陛下がお呼びです。……廊下の騒ぎは、侍従長様が片付けました」

「片付け……」

「はい。“噂に近づくな”と、口の軽い者に命令を」


 それを命令できるのが王城で、命令される側が人で、そして——命令される理由が自分、という事実がまた胸を痛くする。


 ミナは、唇を噛んでから小さくうなずいた。


「……行きます」


 セラが先導し、ミナは王城の廊下を歩いた。


 足元の感触が違う。石畳ではなく、磨かれた床。歩くたびに自分の足音が返ってきて、存在が強調される。


 曲がり角を一つ。窓の外に庭が見えた。噴水。整えられた植え込み。——余裕がある国の景色。


 そこに自分が混ざるのは、間違いだ。


 そう思うのに、寒さがないことが嬉しい。腹が痛くないのが嬉しい。


 その“嬉しい”が、罪みたいだ。


 セラが立ち止まり、扉の前で一礼した。


「こちらです。……ミナ様、深呼吸を」

「……はい」


 ノック。


「陛下。ミナ様をお連れしました」

「入れ」


 扉の向こうの声は、昨日も聞いた。けれど今日は、少し違って聞こえる。


 “王”の声ではあるのに、どこか——自分に向けられている、とわかる声。


 扉が開いた。


 そこは執務室だった。机は大きく、書類が積まれている。窓から光が入り、壁には地図。まさに、国が動く部屋。


 その部屋に、リオルはいた。


 椅子に座ったまま、書類から目を上げる。視線がミナに落ち、そこで止まる。


 止まって、少しだけ動かなくなる。


 ミナは心臓が跳ねるのを感じた。


 (……見られてる)


 服を。自分を。王に。


 逃げたくなる。けれど逃げたら、王命に背く。


 ミナはぎこちなく一礼した。


「……お、お呼びでしょうか」

「……ああ」


 リオルは一度、咳払いをした。珍しい。王が、言葉に詰まるなんて。


 それから、ゆっくりと言う。


「似合う」

「……っ」


 昨日も言われた。けれど今日は、真正面から“見て”言われた。


 ミナは視線を落とし、声が震えた。


「……ありがとうございます……」

「よし」


 また「よし」だ。


 王の口から出るのに、なぜか子どもみたいで、ミナは胸の奥がくすぐったくなる。


 くすぐったくなって、慌てる。


 こんな感情は危険だ。甘やかしに慣れたら、戻れなくなる。


 リオルは机の横に回り込み、ミナと距離を詰めすぎない位置で止まった。


「体調は」

「……昨日よりは……」

「食事は」

「……少し……」

「よし。少しでいい」


 肯定が重なる。否定される準備しかしてこなかった心が、ついていけない。


 ミナは、言うべきことが頭から抜け落ちそうになりながら、思い出す。


 今日一回は「ありがとう」。


 もう言った。今、言った。これで王命は果たした……はず。


 そう思った瞬間、リオルが言った。


「“ありがとう”を言えたな」

「……はい……」

「偉い」


 偉い、という言葉が、胸を叩いた。


 ミナは、怖くなって一歩だけ下がりかけた。だが床が滑らかすぎて、足が思ったより動かない。


 リオルはそれを追わず、代わりに手を差し出した。


「座るか」


 机の近くのソファを指す。王の執務室のソファ。座ったら、国と同じ布に触れるみたいで怖い。


「……いえ……立って……」

「遠慮禁止」

「……っ」


 封じられる。


 ミナはセラを見た。セラは目で「行って」と言った。


 ミナは小さく息を吐き、ソファに浅く座った。背もたれに寄りかかれない。寄りかかったら、甘えてしまう。


 リオルも向かいに座る。王が、保護した少女と向かい合って座る。噂が燃える画が完成してしまう。


「……陛下、こんな……時間を……」

「時間は作るものだ」


 作る。王は時間まで作るのか、とミナは思ってしまった。


 リオルは少し真面目な顔になった。


「ミナ。お前に、提案がある」

「……提案……?」


 提案という言葉は、怖い。提案は断れる形をしているのに、断ったら罰が来ることをミナは知っている。


 だから、提案が一番怖い。


 リオルは続けた。


「お前が“受け取りやすい形”を考えた」

「……受け取り……やすい……」

「ああ」


 リオルが机の上の紙を一枚取り、ミナの前に置いた。文字が並んでいる。読める。難しい言葉ではない。——だから余計に怖い。


 紙の上には、こう書かれていた。


『王城臨時雇用(療養者枠)

待遇:衣食住支給/給与あり

職務:回復(最優先)/任意の軽作業(医師の許可範囲)

雇用主:国王』


 ミナは目を見開いた。


「……きゅ、きゅうよ……?」

「給与だ」


 給与。働いた者が受け取るもの。


 施しではない。慈善ではない。契約。


 ミナの胸の奥に、少しだけ“受け取れる場所”ができた。


 だからこそ怖い。王が、自分に合わせて制度を作っている。


「……私、回復が仕事、なんて……」

「仕事だ」


 リオルは平然と言う。


「お前の回復は、この国にとっても大事だ。——俺にとっては、もっと大事だ」

「……っ」


 最後の一言で、胸が熱くなる。


 熱くなって、また怖くなる。


 ミナは紙を見つめたまま、小さく言った。


「……そんなに……私を……」

「うん」

「……どうして……」

「気に入ったからだ」


 同じ答えが返ってくる。昨日と同じ言葉なのに、今日のほうが刺さる。


 ミナは、紙の端を指先で押さえた。逃げないための支えみたいに。


「……陛下、私、迷惑を……」

「それはもう禁止した」


 リオルが言い切る。


「だから、別の言い方を教える。——『欲しい』だ」

「……ほしい……?」


 ミナは混乱した。


 欲しい、なんて言ったことがない。欲しいと言えば叩かれる。欲しいと言えば奪われる。欲しいと言えば、身の程を知らないと笑われる。


 欲しいは危険な言葉だ。


 リオルは、ミナに圧をかけない声で言った。


「ミナ。小さいことでいい。何か一つ、欲しいものを言え」

「……」


 言えない。喉が閉じる。


 リオルは待つ。待ってくれる。それが一番、心に効く。


 ミナは、頭の中で探した。


 欲しいもの。


 贅沢じゃないもの。

 迷惑にならないもの。

 叶えられても怖くないもの。


 そして、見つけた。


「……あの……」

「うん」

「……窓の……外……」

「外?」

「……お庭……きれいで……」


 言ってしまった瞬間、後悔が押し寄せる。


 庭を見たいなんて、何様だ。王城の庭だ。自分が見ていいわけがない。


 ミナが顔を青くしたのを見て、リオルは立ち上がった。


「見に行こう」

「え……?」

「今」


 今。即答。最短距離。


 ミナは慌てて立ち上がる。


「ま、待ってください……! 陛下、政務が……!」

「政務より優先する」


 そんなことを言っていいわけがない。国が動く部屋で、国の顔が、庭を見に行くと言っている。


 ミナはセラのほうを見た。セラは扉のところに控えていて、表情を変えずにうなずいた。


 (……止めないんだ……)


 止めない。止められない。王命の国。


 リオルが先に扉へ向かい、途中で振り返って手を差し出した。


「手を」


 ミナは固まった。


 手を繋ぐ。そんなことをしたら、噂は火に油だ。何より、自分の手が汚い。触れたら、嫌がられる。


「……い、いえ……私は……」

「遠慮禁止」

「……っ」


 また封じられる。


 ミナは、震える手をそっと差し出した。


 リオルが、握る。


 強くない。温かい。逃げられる余地を残した握り方。けれど——逃げたくないと思ってしまう温度。


 ミナの胸がきゅっと鳴った。


「……陛下……」

「何だ」

「……ありがとう……ございます……」


 今度の「ありがとう」は、命令に従っただけではない。


 そう気づいて、ミナは怖くなった。


 リオルは、当然のように言った。


「どういたしまして」


 それから、少しだけ声を低くする。


「ミナ。欲しいと言えたな」

「……はい……」

「偉い」


 また、偉い。


 ミナは耐えきれず、視線を落とした。頬が熱い。泣きたいのか、笑いたいのか、わからない。


 扉の外へ出ると、廊下の空気が変わった。遠くに控える侍女たち、騎士たちの視線が一斉に集まる。


 噂の芽が、今ここで育つ。


 ミナは息を止めた。


 リオルは視線を正面に固定したまま、淡々と命じる声で言った。


「王命。——今ここで見たことを、噂にするな」

 空気が凍る。

「以上」


 それだけで、廊下の視線が散った。散っていく背中が、どこか悔しそうなのが見えた。


 王は、噂さえ黙らせる。


 ミナは握られた手を見た。


 こんな人に拾われたら、もう戻れない。


 けれど、戻りたくないと思ってしまう。


 リオルが言った。


「庭を見たら、次の『欲しい』も考えろ」

「……次……?」

「うん。練習は毎日だ」


 毎日。


 受け取る練習が、毎日。


 ミナは小さく首を振りたくなったのに、代わりに小さく笑ってしまった。


「……むちゃ……です……」

「むちゃは得意だ」


 同じ言葉が返ってきて、ミナの胸がまた、少しだけ軽くなった。


 そして二人は、王城の庭へ向かった。


 手を繋いだまま。


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王命:遠慮禁止。 kuni @trainweek005050

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