第3話

 包みは、抱えたまま眠ってしまいそうなくらい柔らかかった。


 ミナはそれを“返す”という選択肢から始めて、次に“しまい込む”という逃げ道を探して、最後に——ただ見つめるしかなくなった。


 受け取れ、と言われた。


 王命で。


 けれど「受け取る」と「着る」は別だ。別であってほしい。そう思ってしまう自分がいる。


「……ミナ様」


 セラが声をかける。控えめだが、逃げ道を塞ぐタイミングの正確さがある。


「……はい」

「お召し替えをいたしましょう」

「え」


 ミナは即座に首を振った。


「い、いえ……! 大丈夫です……! 私、今ので……」

「今の服は、昨夜の路地の埃と汗がついています。体調に触ります」

「洗います……! 自分で……!」

「回復まで仕事は禁止です」

「……っ」


 禁止、禁止、禁止。優しい言葉に包まれた禁止が、ミナの心を追い詰める。


 追い詰めるのに、なぜか——助けてもくれる。


 セラは、包みを丁寧に開き、服を広げた。淡い色。花の刺繍は控えめで、主張しないのに品がある。


 ミナはそれを見て、胸が痛くなった。


「……汚してしまいます」

「汚れても洗えます」

「破いてしまったら……」

「直せます」

「……私が、ここにいるだけで……」

「遠慮は禁止です」


 セラは即答したあと、少しだけ視線を落とす。


「……ミナ様。怖いのですね」

「……」


 怖い。怖いと言ってしまったら、さらに迷惑をかける気がして、ミナは唇を噛む。


 セラは責めない声で続けた。


「着替えは、ひとりでなさいますか。それとも、私が手伝いましょうか」

「ひ、ひとりで……!」


 反射で答えたミナに、セラはうなずいた。


「では。私は向こうを向きます。困ったら呼んでください」

「……はい……」


 セラが本当に背を向けたのを確認してから、ミナは震える手で今の服のボタンに触れた。


 指がうまく動かない。焦る。焦るほど指が滑る。


 (……落ち着いて)


 昨夜言われた言葉が頭に浮かぶ。


 ——受け取る練習。


 ミナは深呼吸して、一つずつ外した。


 服を脱ぎ、王城の水で拭われた肌に空気が触れると、ぞくりとした。恥ずかしさではない。生きている、という感覚が強すぎる。


 新しい服を持ち上げる。


 軽い。温かい。まるで“これを着るのが当然”と言ってくる。


 ミナは袖を通しかけて、止まった。


 鏡が目に入ったからだ。


 部屋の隅に置かれた姿見。磨かれたガラスは、嘘みたいに鮮明に自分を映す。


 やつれた頬。細い首。鎖骨の浮き。……服のせいじゃなく、自分が“足りない”ことが見えてしまう。


 この服は、似合わない。


 王が「似合う」と言ったのは、優しさの嘘だ。


 そう思った途端、胸の奥から黒いものが湧いて、ミナは服を抱えたまま固まった。


「……セラ」


 声が、掠れた。


「はい」


 セラが振り返りかけるのを、ミナは慌てて止めた。


「見ないで……! まだ……」

「失礼しました。どうなさいましたか」


 ミナは言葉を探して、見つからなくて、正直に言った。


「……私、これ……無理です」

「無理、とは」

「……似合わない……」


 しん、と静かになった。


 セラがゆっくり言う。


「陛下に、嘘をつかせたいのですか」

「え……」

「陛下は、『似合う』とおっしゃいました。ミナ様がそれを否定するなら、陛下の言葉が嘘になります」


 ミナは息を止めた。


 王の言葉が嘘になる。そんなこと、恐れ多い、ではなく——それ以前に、あの人が嘘をつくところを想像できない。


「……でも……」

「では、確かめましょう。着て、見て、判断すればよいのです」


 正論だ。逃げ道を塞ぐ正論。


 ミナは、震える手で袖を通した。


 布が肌に触れた瞬間、思ったよりも冷たくない。むしろ少し温かい。縫い目が擦れない。締め付けがない。


 鏡を見るのが怖い。


 けれど、見ないままでは終わらない。


 ミナは、目を上げた。


 ——知らない少女が映っていた。


 自分なのに、自分じゃない。服が“普通の暮らし”を先に連れてきてしまったみたいで、胸が苦しくなる。


 似合う、という言葉を否定できない。


 否定したくない。


「……どうでしょう」


 セラが、今度はちゃんと許可を取るように尋ねた。


 ミナは小さくうなずき、セラが振り返る。


 セラの目が、わずかに丸くなった。


「……お似合いです」

「……」

「陛下のご判断は正しいですね」


 ミナは、喉の奥に押し込めていた言葉を思い出した。


 今日一回は、「ありがとう」。


 でも、それを言うと、今度こそ本当に“受け取った”ことになる。


 ミナは口を開きかけて——そのとき、廊下の外が騒がしくなった。


 足音が増え、声が重なる。ひそひそという囁きが、扉の向こうを流れていく。


「……聞いた? 陛下が……」

「……保護したって……」

「……女の子……」


 ミナの背中が冷たくなった。


 噂。噂が形になる。形になった噂は、人を刺す。


 ミナは反射でセラを見る。


「……私のせいで……」

「違います」


 セラは即答した。昨夜の王と同じ速度の否定。


「噂は噂です。事実は王命で統一されています」

「でも……」

「でも、ではありません。遠慮は禁止です」


 ミナは唇を噛んだ。噛んでも、恐怖は消えない。


 そこへ、扉がノックされる。


 低い、落ち着いたノック。城内の誰よりも“格式”のある音。


「入る」


 返事を待たずに開き、侍従長が入ってきた。昨日、医務室で王命を受けた男。背筋が刃のように真っ直ぐで、目が秤のように冷静だ。


 侍従長はミナを一瞥し、すぐに視線をセラに移す。


「……失礼。侍女が同席しているなら構わない」

「侍従長様、何用でしょう」

「陛下のご意向に関わる確認だ」


 侍従長は、ミナに向き直った。丁寧だが、距離が遠い。人を“扱う”ときの礼儀。


「ミナ殿。あなたは保護対象だ。これ以上の詮索はしない」

「……はい……」

「しかし、あなたの存在は、陛下の評判と直結する。——あなたが望まぬ噂が立つ」


 ミナの胸が痛んだ。


 ほら、やっぱり。迷惑だ。王の評判を落とす。だから、出ていくべきだ。


 ミナがその言葉を口にしようとした瞬間。


 侍従長が、続けた。


「ゆえに、あなたに求めるのは一つ。陛下の命令に従いなさい」

「……え……?」

「遠慮禁止。保護対象としての生活を受け取りなさい。受け取らずに拒めば、かえって噂は燃える」


 理屈が、冷たい手で頬を挟んできた。


 受け取ることが、最も安全。


 受け取らないことが、最も危険。


 ミナは、震える声で言った。


「……私が……受け取ったら……余計に……」

「いいえ」


 侍従長の否定は短かった。


「陛下は、国の顔です。その陛下が『守る』と宣言した。——守り抜けなかった場合のほうが、国が笑われる」

「……」

「あなたの遠慮は、陛下の権威を削る。……意図せずとも」


 ミナの喉が詰まった。


 遠慮が、王の権威を削る。


 そんな発想はなかった。遠慮は、自分が叩かれないための鎧だったのに。


 侍従長は一礼し、言葉を締めた。


「以上です。……そして、あなたの服装は適切です。王城内で、みすぼらしさは噂の餌になりますから」

「……っ」


 みすぼらしい、と言われて刺さったはずなのに——ミナは反論できなかった。事実だったからだ。


 侍従長は去ろうとして、扉の前で一度だけ振り返った。


「最後に。陛下は優しい。しかし、優しさは時に、国より頑固だ」

「……」

「覚えておきなさい。——あなたが折れるまで、陛下は折れません」


 扉が閉まった。


 部屋に残ったのは、静けさと、心臓の音だけ。


 ミナは服の袖をぎゅっと握った。布は柔らかいのに、握る手が痛い。


 セラが、そっと言う。


「……怖いですか」

「……はい……」


 初めて、怖いと口に出せた。


 セラは驚かず、頷いた。


「では、次です。今日の王命を、思い出してください」

「……『ありがとう』……」

「ええ。……陛下に言うのは、難しいですか」

「……はい……」


 セラは少し考えてから、提案するように言った。


「では、段階を踏みましょう。まずは私に」

「……」


 ミナは、ゆっくり息を吸った。


 受け取る練習。


 その第一歩は、言葉だけだ。言葉なら、まだ——怖くても、できる。


「……セラ」

「はい」

「……ありがとう……」


 セラが微笑んだ。


「どういたしまして。ミナ様、次は——陛下に“その服を見せる”ことです」

「……っ」


 それは、戦争だ。


 着替えは戦争。噂は政務。


 ミナは思った。


 自分は今、とんでもない場所に拾われてしまったのだ、と。


 そして同時に——拾われてよかった、と。


 その感情が一番怖い。


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