第2話
目が覚めた瞬間、ミナは自分がまだ生きていることに驚いた。
ふかふかの布団が身体を包み込み、天蓋の影がゆるく揺れている。窓から差す光は柔らかく、空気は薬草と石鹸の匂いがした。——清潔すぎて、息をしていいのか迷うほど。
ここは王城。
昨夜、路地で倒れていた自分を拾い上げた人が、王だと知った場所。
ミナは慌てて身を起こそうとして、目の前の光景に固まった。
ベッド脇の台に、水差しとガラスのコップ。花。薄い毛布がもう一枚。足元には、刺繍の入ったスリッパが揃えられている。
揃えられている、という事実だけで胸が苦しくなる。
——自分のために用意されたものが、怖い。
扉が静かにノックされた。
「ミナ様、失礼いたします」
返事をする前に、扉が少し開き、侍女が滑るように入ってきた。年はミナより少し上だろうか。髪はまとめられ、制服の皺一つない。
侍女は盆を持っていた。湯気が立つ粥と、焼いたパン、果物、薬湯——朝餉だ。
「お目覚めでいらっしゃいますね。お加減はいかがですか」
「……み、みな……さま……?」
呼ばれ方が信じられなくて、ミナは喉の奥で声が裏返った。
「はい。王命ですので」
「おう……めい……」
侍女は当たり前のように言って、盆をテーブルに置いた。
王命。昨夜、白い医務室で響いた言葉。空気が凍り、誰も逆らえなくなる声。
そして同時に宣言された——遠慮禁止。
ミナは、胃がきゅっと縮むのを感じた。
「……あの、私、働けます。お掃除でも、洗濯でも……」
「回復まで、お仕事は禁止です」
禁止。
ミナは言葉を失った。働かなければ、居場所は消える。そう教え込まれてきたからだ。
侍女はミナの反応を見て、声の温度だけを少し落とした。
「……私の名前はセラです。回復まで、お側につきます」
「セラ……さん……」
「呼び捨てで構いません」
「そ、それは……」
「遠慮は禁止です」
セラは淡々と言い切ってから、椅子を引いた。
「座ってください。お粥から召し上がりましょう」
「……」
椅子の背もたれの彫刻が、やけに目に入る。触れたら壊れそうだ。壊したら弁償できない。弁償できないなら——捨てられる。
そんな未来が、いつもの速さで頭の中を走り抜ける。
セラはミナの手元を見て、早口でもなく、強くもなく言った。
「ここでは、壊しても叱られません。……叱るなら、陛下が先に叱られます」
「え……?」
「陛下が“最上”を命じましたから」
最上。
昨日、医務室で侍従長がうなずいたあの一言を思い出し、ミナは胸が苦しくなった。
「……私なんて……最上じゃなくて……」
「遠慮は禁止です」
セラは短く切り、次いで少しだけ困ったように眉を下げた。
「……本音を言うと、私たちも慣れていません。陛下の“甘やかし”は、時々、国庫みたいな顔をしますから」
「こく……?」
ミナが聞き返すと、セラは咳払いを一つ。
「以前、陛下は“民の冬服”を思いつきで増やしかけました。防寒が大事だと」
「……優しい……」
「優しすぎて、怖い時があります」
その言い方が妙にリアルで、ミナは少しだけ息が抜けた。
椅子に座る。
粥を口に運ぶ。
温かさが喉を通り、胃に落ちていく。身体が内側からほどける感覚。——泣きそうになる。
「……おいしい……」
「よかった。医師も安心します」
セラは嬉しそうに言った。
ミナは数口で止まった。これ以上食べると、身体ではなく心が受け取れない。
「……もう、十分……です……」
「わかりました」
あっさり頷かれて、ミナは拍子抜けした。
「……怒らないんですか」
「怒りません。食べられる量は人それぞれです」
優しさが“当然”として置かれている。それが怖い。
そこへ、扉が開いた。
「ミナ、起きているか」
王——リオルが入ってきた。昨日よりも軽装で、髪も少し乱れているのに、場の空気が一段引き締まる。王という存在の重みだ。
ミナは反射で立ち上がろうとして、セラにそっと肩を押されて座らされた。
「座ったままで」
「……っ」
リオルはミナの顔色を見て、ほんの少し目を細めた。
「顔が戻った」
「……はい……」
返事が小さすぎたのか、リオルの口元がわずかに上がる。
「食べたか」
「……少し……」
「少しでいい」
許されることが、まだ信じられない。
ミナが視線を彷徨わせていると、リオルは椅子を引いて向かいに座った。王が、保護した少女の部屋で、朝食の盆を見ながら座る。現実味がなさすぎて、ミナの頭が追いつかない。
「……陛下……私は……ここにいると……噂が……」
「噂は俺が処理する」
即答。
「……私のせいで……」
「違う。お前のせいではない」
その断言に、ミナは喉が詰まった。そんなふうに断言してもらえる人生が、今までなかった。
リオルは指を一本立てた。
「確認だ。昨夜、俺は何を命じた」
「……遠慮……禁止……」
「よし」
よし、という言葉が、王の口から出るのが可笑しい。可笑しいのに、胸が熱くなる。
リオルは続ける。
「この部屋は落ち着くか」
「……え……」
「落ち着くか」
落ち着くか、と聞かれても困る。落ち着けない、と答えたら追い出される気がする。落ち着く、と答えたら贅沢を肯定するみたいで怖い。
ミナは握りしめた指に爪を立てて、絞り出した。
「……落ち着きません……」
「そうか」
怒られない。否定されない。むしろ、考えるように頷かれる。
「立派すぎるか」
「……はい……」
言ってしまった。心臓が跳ねる。
リオルは、何でもないことのように言った。
「なら変える。お前が安心できる部屋にする」
「そ、そんな……もったいないです……!」
声が大きくなってしまい、ミナは慌てて口を押さえた。
リオルは落ち着いた声で返す。
「もったいない、は禁止だ」
「……っ」
封じられる。けれど、責められてはいない。
リオルは机に小さな包みを置いた。上質な布で包まれている。
「服だ」
「……私、今の……ので……」
「だめだ。寒い。体に悪い」
「でも……お金が……」
「王が出す」
簡単に言わないでほしい、とミナは思った。王が出す、で済む世界に自分がいるのが怖い。
包みに手が伸びないミナを見て、リオルは少しだけ声を落とした。
「ミナ」
「……は、はい」
「受け取れ」
命令。逃げ道のない形。
それなのに、その目は優しい。
ミナは、震える指で包みに触れた。布の柔らかさが指先に吸い付く。
「……こんなの……私には……」
「似合う」
リオルは迷いなく言った。
「……見てもいないのに……」
「お前が着るなら似合う」
言葉が、心臓の奥を叩いた。
ミナは返事ができない。代わりに、視線を落とした。落とした先で、包みを抱きしめてしまっている自分に気づき、また慌てる。
セラが咳払いを一つし、場を整える。
「陛下。医師より、本日は安静と」
「ああ。無理はさせない」
リオルは立ち上がり、扉に向かいかけて、振り返った。
「もう一つ、王命」
「……え……?」
「今日、最低一回は『ありがとう』と言え」
ミナは固まった。
ありがとう、は怖い。言った瞬間、恩が確定して、返さなければならない気がする。返せないなら、言えない。
その心理を見抜いたように、リオルは言った。
「返せないから言わない、も遠慮だ」
「……む、むちゃです……」
「むちゃは得意だ」
小さく笑って、リオルは出ていった。
扉が閉まったあと、部屋には静けさが戻る。
ミナは包みを抱えたまま動けなかった。心の中で、何度も同じ言葉がぐるぐる回る。
ありがとう。
言っていいのか。
言ってしまっていいのか。
セラが、そっと言う。
「陛下は……本気です」
「……わかります……」
本気だからこそ怖い。本気だからこそ、少しだけ救われる。
ミナは息を吸い、吐いた。喉の奥が痛い。
「……セラ」
「はい」
「……その……」
声が震える。胸が苦しい。
それでも、言う。
「……ありがとう……」
セラは驚いたように目を瞬かせてから、ゆっくり微笑んだ。
「どういたしまして。……とても上手です」
「上手……?」
「はい。“受け取る練習”の、第一歩です」
ミナは、笑い方を忘れていた。
けれどその言葉が、なぜだか少しだけ可笑しくて。
ほんの少し、口元が緩んだ。
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