王命:遠慮禁止。

kuni

第1話

 春の終わり、王都の風はまだ冷たかった。


 王城を抜け、護衛を最小限にして街を歩くのは、俺——リオル・アルヴァンにとって半ば習慣だ。小国の王である以前に、民の顔を見て声を聞かなければ、国は机上の線になってしまう。


「陛下、裏通りは——」


 若い騎士が言いかけたのを、俺は目で制した。


「わかっている。だが、困りごとは表通りより裏に落ちる」


 そして、その“落とし物”は今日も、期待を裏切らなかった。


 酒場とパン屋の間の細い路地。乾いた石畳の上に、ひとりの少女が倒れていた。


 小柄で、髪は煤けたように淡い茶。服はつぎはぎで、指先は荒れている。だが——倒れ方が、ただ事じゃない。息は浅く、唇は血の気を失っていた。


「……おい」


 肩に触れた瞬間、熱が指先に返ってきた。


 熱い。高熱だ。しかも、身体が軽すぎる。まともに食っていない。


 周囲に人影はある。だが、皆、見て見ぬふりをしている。王都は豊かだ。けれど、豊かさの端にいる者は、いつだって声を上げる余力がない。


「水だ。すぐに」


 護衛の一人が駆け出す。


 そのとき、路地の奥で靴音が増えた。酔っ払いにしては足取りが揃いすぎている。


「おいおい、拾い物かよ。運がいいな」

「その子、うちの店から逃げたやつだ。返してもらうぜ」


 前に出てきた男は、腕が太く、目が濁っている。背後に二人。路地の狭さを盾に、逃げ道を塞ぐつもりらしい。


 俺は少女を抱え上げ、背中に回した。護衛が一歩前に出るより先に、俺が口を開く。


「質問は一つだ。彼女に何をした」


「は? 誰だお前」


 男が嗤う。鼻先に酒臭い息。


「王都じゃ、こういうのは珍しくねぇ。働けないやつは——」


 次の言葉は、出なかった。


 俺が、男の手首を取ったからだ。握った瞬間、関節が鳴る。痛みの悲鳴が路地に跳ね、男の膝が折れた。


「……っ、ぐっ! やめろ!」

「珍しい、で済ませるな」


 背後の二人が短剣を抜く。護衛が動くより早く、俺は足を踏み出した。


 一歩。


 石畳がきしむほどの圧で、路地の空気が変わる。二人の手が止まり、目が泳いだ。


「刃を収めろ。次に抜いたら、腕ごと折る」


 俺が淡々と言うと、二人は短剣を落とした。音が軽い。軽すぎる。彼らの覚悟も、命も。


 護衛が男たちを拘束し始める。俺は背中の少女に意識を戻した。


 軽い。熱い。呼吸が浅い。


 水を持って戻ってきた護衛が、震える声で言った。


「陛下、医師を——」

「今すぐ王城へ運ぶ。馬車を回せ」


 俺が言い切ると、護衛たちが一斉に動いた。王城の馬車は本来、王の移動にしか使わない。だが今は、そんな規則の方がくだらない。


 少女のまぶたが、わずかに震えた。


「……や……」

「無理に喋るな」


 口元に水を含ませると、少女は微かに飲み、すぐに咳き込みかけた。俺は背中をさすり、落ち着かせる。


「……すみ、ま……せ……」


 その一言が、胸に刺さった。


 謝るな。助けを求める前に、謝る癖が染みついている。


 俺は、少女を抱き直した。


「謝る必要はない。お前は倒れた。それだけだ」


 けれど少女は、意識が薄れていく中でなお、縋るように言う。


「……ごめいわく……を……」

「迷惑ではない」


 強く言いすぎたかもしれない。少女の肩がびくりと震えた。


 俺は一度、息を吐いて声の温度を落とす。


「安心しろ。俺が——俺たちが守る」


 そのまま王城へ運んだ。


---


 王城の医務室は白く、清潔で、匂いまで違った。医師が脈を取り、額に手を当て、眉を寄せる。


「過労と栄養失調です。睡眠も不足しています。……よくこれで歩いていましたね」

「歩いていない。倒れていた」


 医師が苦笑する。


「……運がよかった」


 運。確かにそうだ。俺が通りがかったのは偶然だ。だが、偶然で救われる命があるなら、その偶然を“仕組み”にしたくなる。王という立場は、そのためにある。


 少女は清められたベッドで眠っていた。シーツの白が、彼女の頬の青白さを際立たせる。


 侍女が小声で言った。


「陛下、この方の身元は……」

「まだだ。目が覚めてから聞く」


 そう言ったが、俺は既に決めていた。


 この子は、保護する。


 それだけじゃない。——安心させる。


 人は、飢えと寒さと殴打に慣れると、優しさにも怯えるようになる。受け取った瞬間、いつか奪われると思うからだ。


 なら、奪われないと理解するまで差し出し続ければいい。


 王として。ひとりの男として。


---


 夕方、少女が目を覚ました。


 目は大きい。怯えた鹿のように周囲を確かめ、俺を見つけると、反射で起き上がろうとして——ふらついた。


「動くな」


 俺が手を伸ばすと、少女は一瞬、触れられることそのものに身を固くした。だが抵抗はしない。抵抗する元気がないのか、抵抗する権利がないと信じているのか。


「……ここ、は……」

「王城だ」


 その言葉を聞いた瞬間、少女の顔から色が消えた。


「……おう、じょう……? な、なんで……私が……」

「路地で倒れていた。保護した」


「ほ、ほご……」


 その言葉を口に含んだだけで、彼女は泣きそうな顔をした。なぜ、保護で泣く。いや、わかる。保護は、時に“檻”と同義だ。恩を背負わせる言葉でもある。


 少女は両手を握りしめ、震える声で言った。


「……すぐ、出ていきます。ご迷惑を……」

「出ていかせない」


 言い切った瞬間、少女の目が見開かれた。


「え……」

「お前は、まず治せ」


「で、でも……私、身分も……何も……」

「身分を理由に遠慮するな」


 少女の唇が、言葉を探すように震えた。


「……こんな所にいたら……お叱りを受けます。お城の方々に……」

「叱る者がいるなら、俺が叱る」


 少女はぽかんとした。たぶん、人生で初めてだ。誰かが“自分のために”威張ったのを見たのは。


 俺は椅子を引き、彼女の目線に合わせて座る。威圧しない距離で、逃げ道を塞がない角度で。


「名前は」

「……え……」

「名前だ。呼びたい」


 少女は視線を落とし、しばらく黙った。言いたくない、のではない。言ってはいけないと教え込まれている顔だ。


「……ミ……ナ……」

「ミナ」

「……はい……」


 小さすぎる返事だった。だが、それでも受け取る。


「ミナ。ここでは、誰もお前を働かせない。誰も殴らない。誰も“返せ”と言わない」


 ミナは顔を上げた。信じていいのかわからない目。


「……そんなの……」

「ある」


 俺は断言した。王の言葉は、宣言であり、命令であり、契約だ。


 そのとき、扉がノックされ、侍従長が入ってくる。年嵩で、常に背筋が刃物のように真っ直ぐな男だ。


「陛下。報告が」

「言え」


「路地の男どもは、少女を違法に働かせていた可能性が高いと。証言も取れそうです」

「処理は法に従え。例外は作るな」

「は……」


 侍従長の視線が、ベッドのミナに移った。一瞬の計測。王の“気まぐれ”か、それとも政治の火種か。あの目はいつも、国の秤だ。


「もう一点。城内で、噂が立ち始めています。“陛下が少女を連れ帰った”と」


 ミナが、びくりと震えた。顔が曇る。やはり、噂が怖い。自分のせいで誰かが責められるのが怖い。


「……やっぱり……私……」


 言いかけたミナに、俺は被せる。


「噂は放っておけ」


 侍従長が慎重に言う。


「陛下、放っておけば、噂は勝手に形を——」

「なら、形をこちらで決める」


 俺は立ち上がり、医務室にいる者全員に聞こえる声で言った。


「王命」


 空気が凍り、背筋が伸びる音がした。侍女も医師も護衛も、反射で姿勢を正す。


 ミナだけが意味を理解できず、目を丸くする。


 俺は宣言した。


「この者——ミナは、王の保護対象とする。回復まで、衣食住および安全を王権をもって保障する」

「へ、い、か……」


 ミナの声が震える。


「加えて」


 ここからが本題だ。


「保護対象に対し、過度の遠慮を強いる行為を禁ずる。……いや、遠慮そのものを、回復の妨げとみなす」


 侍従長の眉がわずかに動いた。突飛だと思ったのだろう。だが、止めない。王命は王命だ。


 俺はミナを見た。


「ミナ」

「……は、はい……」

「お前もだ。遠慮は禁止だ」


 ミナの目が潤む。困惑と恐怖と、ほんの少しの安堵が混ざったような光。


「……そ、そんな……できません……」

「できる」


 俺は、優しく、しかし逃げ道を残さない声で言った。


「できないなら、練習だ。受け取る練習をしろ。ここは、そのための場所にする」


 ミナは唇を噛み、視線を落とす。拒否する代わりに、泣きそうな顔で小さく首を振った。


「……私……そんな価値……」

「価値で扱うな」


 俺は即座に否定する。


「お前は人だ。倒れた。助ける。それで十分だ」


 言葉の後、ミナの肩の力が少しだけ抜けた。ほんの少しだが、確かに。


 侍従長が咳払いを一つ。


「承知いたしました。では、保護対象としての部屋、衣類、食事、付き添いの侍女を——」

「最上で」


 俺が言うと、侍従長は一瞬だけ目を細めた。反対はしない。ただ、確認するように。


「最上……で」

「最上で。ミナが“申し訳ない”と言える余地がないくらいに」

「……かしこまりました」


 ミナが慌てて言う。


「そ、そんな……! 私なんて……!」

「遠慮禁止だ」


 俺が言うと、ミナの口が開いたまま止まった。


 そして、信じられないものを見る目で俺を見上げる。


「……王様は……どうして……」

「気に入ったからだ」


 言ってから、俺は少しだけ間を置いた。


 政治ではなく。慈善でもなく。義務でもなく。


「俺は、お前に笑ってほしい」


 ミナは、息を呑んだ。


 その表情に、俺は確信する。——この子は、優しさを受け取る訓練が必要だ。そして俺は、たぶんそれを、徹底的にやる。


 最強の王として、最優先の政務にして。


---


 医務室の外に出ると、護衛が小声で言った。


「陛下……“遠慮禁止”は、さすがに……」

「そうか?」

「前例が……」

「前例は作るものだ」


 俺は廊下の窓から王都を見た。夕日が屋根を赤く染め、人々が今日を終えようとしている。


 その中に、今日倒れていた少女と同じような者が、何人いるのだろう。


 俺は呟く。


「まず一人だ」


 そして、王としての声に戻す。


「ミナの回復が最優先だ。噂には“王の保護対象”で統一して返せ。余計な尾ひれを付けるな」

「はっ」


 扉の向こうで、ミナが侍女に何か言っている声が聞こえた。


「……あの……本当に……いいんですか……」

「はい。王命ですから」

「……でも……申し訳……」

「……申し訳、は禁止です」


 侍女の声に、少し笑いが混じった。


 俺は、思わず口元を緩めた。


 禁じたのは遠慮だ。だが、禁じた途端に世界が変わるなら、王はきっと——もっと早く命じるべきだったのだろう。


 これから毎日、ミナは遠慮する。

 そのたびに、俺は甘やかす。

 そして彼女が受け取れるまで、何度でも。


 なにせこれは、王命だ。


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