2 泥と矜持、そして鉄の足音

 翌朝、俺を襲ったのは全身を万力で締め上げられたような激痛だった。


「――っ、あだだだだ」


 ベッドから這い出そうとした瞬間、節々の骨が軋む。異世界転生で体格が若返り身体能力も上がっているはずなのだが、バハムートという規格外の出力を受け止めた代償は大きかったらしい。


「あら、ようやく起きたのね。そのまま永遠に永眠したのかと思ったけれど。貴方の死体をどう処理するか、ミアと賭けをしていたところよ」


 永遠に永眠ってなんだよ?


 部屋のドアを蹴破るような勢いで入ってきたのは相変わらずのセリアだった。手にはお盆。載っているのはお世辞にも食欲をそそるとは言えない――どろりとした灰色の粥だ。


「おはよう、セリア。その賭けの結果は?」

「私は『脳まで筋肉に置き換わったアメーバは死んでも心臓が動き続ける』に賭けたわ。残念、私の負けね。ほら、食べなさい。毒は入れてないわ。入れる価値もないもの」


 いやいや、それだと生きているに賭けたことになるだろ?


 セリナはそっけなく粥を机に置く。言い方は最悪だが、それが彼女なりの朝食の提供なのだと、この短い時間で理解し始めていた。


「レンさん! 大丈夫ですか? 昨日の今日ですから絶対身体がボロボロだと思って……これ薬草を煎じた湿布です。あの、よかったら貼りましょうか?」


 セリアの背後からミアがおどおどと必死な様子で顔を出す。手には独特の青臭い匂いがする布が握られていた。


「助かるよ。悪いな、新入りが手間をかけさせて」


「い、いえ! レンさんは私たちの英雄ですから! あのバハムートちゃんを静めちゃうなんて、私、一生ついていきたいって思っちゃいました……あう、変な意味じゃないですよ!」


 赤くなって俯くミア――その様子を見てセリアが鼻で笑う。


「英雄? 買い被り過ぎよ。さっさと食べて、厩舎へ行きなさい。貴方の相棒が朝から暴れて壁に穴を開けているわよ」


 厩舎へ向かうと、そこには昨日よりも殺気立った――いや、苛立った様子のバハムートがいた。俺の姿を見るなり鼻を鳴らし、前脚で地面を激しく掻いた。


『遅いぞ、レン! 貴様、我が一度背を許したからといって慢心しているのではないか!』


 その声は脳内に直接響く。昨日の恐怖に満ちた叫びとは違い、今は純粋な闘争心に近い。俺は全身の痛みを堪え、笑みを浮かべて近づいた。


「悪いな、少し寝坊した。お前……昨日の走りで左の肩が張ってるだろ。少し解してやるよ」


 俺は馬具を手に取る代わりに素手で大きな身体に触れた。騎手時代、俺は誰よりも馬の体調管理にうるさいと言われていた。馬の筋肉は繊細だ。特にバハムートのような、魔力と筋力が高度に融合した個体は、僅かなこりが致命的な走りの乱れを生む。


「ここだろ?」


 俺が肩甲骨の裏側に指を食い込ませ、プロの技術でマッサージを施す。


『――っ、ぬ、うう! 貴様、なにを……そこは、そんな、気持ちが良い……など』


「我慢するな。お前の身体は凄まじいエンジンだが、シャーシが追いついてない。もっと効率よく力を使えるようになれば、昨日の倍近い馬力が出せるぞ」


『倍だと? 貴様、我を侮辱するのか? 我はこれでも……全力を尽くしていた』


「侮辱じゃない。信頼だ。俺とお前なら――まだ誰も見たことのない景色が見れる。そう思わないか?」


 俺はバハムートの瞳を真っ直ぐに見つめた。 しばらく黙っていたが、やがて大きな溜息を吐き、首を俺の胸に預けてきた。


『ふん、口の減らぬニンゲンだ。だが貴様の指先は嘘をつかぬ。認めよう。貴様はただの乗り手ではなく、我が血を燃やすに値する男だ』


 それは種族を超えた認め合いだった。俺はブラシをかけ、泥を落とし、最高級の飼料を与えた。その様子を遠くから見ていたミアは「なんだか本当の兄弟みたいですね」と目を細め、セリアは「気味が悪い。馬と心中するつもりなのかしら?」と毒を吐きながらも帳簿をつける手がどこか楽しそうだった。


 午後から俺はバハムートを連れて外の平原に出た。ただ走るのではない。俺が教えるのはこの世界の騎士たちも、そしてバハムート自身も知らなかった技術だ。


「いいか、バハムート。コーナーでは遠心力に逆らうな。俺の体重移動に合わせろ。お前の重心を僅かに内に倒すだけで失速せずに曲がれる」


『理屈はわからぬが……やってみよう』


 俺たちは何度も何度も旋回と加速を繰り返した。異世界の馬は魔力で無理やり身体を動かす傾向がある。しかしバハムートの飛竜の血を効率よく使うには、地球の競馬で培われた空気抵抗の削減や、歩法の切り替え(手前の替え方)が劇的な効果を発揮した。


 風を切り裂く。バハムートの走りが洗練されていくのがわかる。荒々しい野獣の走りが精密な芸術品のような走りに変わっていく。ポテンシャルが引き出される喜びを感じているのか、嘶きはどんどん高く透明なものになっていった。


「完璧だ、バハムート!」


 俺が叫ぶと嬉しそうに加速を一段階上げた。 背中に伝わる鼓動が俺の心臓と重なる。ああ、これだ。これこそが俺が求めていた競馬の極致だ。


「レンさーん! セリアさーん! おやつ持ってきましたよ!」


 遠くでミアが手を振っている。隣には不機嫌そうな顔をしながらも、日傘を持って立っているセリア。平和で充実した時間だった。


 しかしその平穏は突如として響いた金属の音によって切り裂かれた。


 丘の向こうから数十騎の馬群が現れる。それらはこの厩舎にいる馬たちとは明らかに違う。重厚な鉄の鎧を纏い軍事的に訓練された威圧感を醸し出している。


「あれは……領主様の直属騎士団?」


 ミアの声が震える。セリアの表情も一気に険しくなった。


 馬群の先頭にいたのは、豪華な外套を羽織った、傲慢そうな顔立ちの男だった。バハムートと――その背に乗る俺を冷ややかな目で見据える。


「ほう……まだ殺処分されていなかったのか? 呪われた駄馬め」


 男は馬から降りると懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「私は領主代行バルガス。この厩舎に対し、最終通告を行う。数多くの騎士を傷つけ軍馬としても役立たずと判断されたこの黒馬――バハムートの殺処分を直ちに執行する。そして、命令に背き匿っていたこの厩舎の管理責任も問わせてもらう」


「待ってください、バルガス様!」


 セリアが前に出る。いつもの毒舌は影を潜め、しかし凛とした必死な声だ。


「バハムートはもう暴れ馬ではありません。そこの男――レンが完璧に御しています。見ての通り今はもう人を襲うことなど――」


「黙れ、平民。御しているだと? 鞍もつけていない男が上に乗っているだけではないか? そんなものは死ぬ前の獣が見せる気まぐれに過ぎん」


 バルガスは冷酷に笑い、背後の騎士たちに合図を送った。騎士たちが長槍を構え、バハムートを包囲するように展開する。


「や、やめてください! バハムートちゃんはやっと心を開いてくれたんです!」


 ミアが泣きながら割って入ろうとするが、騎士の一人に手荒く突き飛ばされる。


「ミア!」


 俺はバハムートから飛び降り彼女を支えた。


『レン……やはり奴らは変わらぬ。我を殺し屈服させることしか考えておらぬのだ。やってやる。全員、噛み砕いてくれる!』


 バハムートの瞳に再び黒い狂気の炎が宿り始める。俺は首筋を強く掴み制した。


「待て。落ち着け、バハムート」


 俺は前へ出る。騎士たちの槍先が俺の喉元に向けられた。だが、俺は引かなかった。騎手として数多の荒馬を宥め、大舞台を勝ち抜いてきた度胸が、俺の足を地面に縫い付けていた。


「バルガスと言ったか? あんたはこの馬が役立たずだと言ったな」


「当然だ。御せぬ馬に価値はない」


「ならさ、賭けをしよう。あんたたちが誇る最高級の軍馬と、このバハムートでレースだ。もしバハムートが勝てば、殺処分は取り消し、この厩舎の自由を認めてもらう」


 俺の言葉に周囲が静まり返った。セリアが目を見開き、ミアが息を呑む。バルガスは一瞬呆然とした後、腹を抱えて笑い出した。


「はっはっはっ! 面白い、面白いぞ! 無知な平民が騎士団の駿馬に挑むというのか? いいだろう、その身の程知らずな提案――受けてやる」


 バルガスは蛇のような笑みを浮かべ俺を指差した。


「だが、負ければただの処分では済まさん。馬は肉に厩舎の女たちは奴隷に、そして貴様は――反逆罪として処刑だ。三日後、この平原で審判のレースを行う。精々、死ぬまでの三日間を謳歌するがいい」


 鉄の足音を響かせ騎士団は去っていく。残されたのは重苦しい沈黙とバハムートの荒い鼻息。


「馬鹿。あんた、本当に馬鹿ね」


 セリアが震える声で呟く。


「負けたら全員終わりよ。どうするつもり?」


 俺はバハムートの瞳を見た。そこには戦う者の輝きが宿っていた。


「どうするもなにもない。勝つだけだろ?」


 俺たちの真価が問われる命懸けの賭け。そのカウントダウンが今始まった。

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