元天才騎手、馬の声が聞こえる能力で異世界の呪われた馬を最強にする 〜落ちぶれ厩舎の令嬢と看板娘を救って王都の魔法競馬を蹂躙する〜

御厨あると

1 再起のターフ、風の囁き


 視界が真っ白に弾けた。


 直前まで俺の耳を支配していたのは、数万人の歓声と、大地を削り取るような蹄の音、そして相棒の激しい呼気だった。G1――日本ダービー。最終コーナーを回り、残り二百メートルの直線。俺は完璧な進路(コース)を選び勝利を確信していた。しかし隣を走っていた馬が予期せぬ斜行を見せた。


 回避は不可能だった。接触、転倒。空が回る。


「――っ!」


 愛馬の悲鳴が聞こえた気がした。俺の身体は放り出され、後続の馬群に飲み込まれた。かつて感じたことのない衝撃が全身を砕き熱い血の匂いが鼻を突く。ああ、終わったんだな――そう思った瞬間、意識は深い闇の底へと沈んでいった。


 どれほどの時間が経っただろうか? 不意に頬を撫でる柔らかな風の感触で目が覚めた。


 んんん……病院か? しかし目を開けても消毒液の匂いはしない。代わりに鼻腔をくすぐったのは、むせ返るような緑の香りと乾いた土の匂い。


「起きたか、ニンゲン?」


 頭上から声がした。がばっと飛び起きようとして、身体に痛みがまったくないことに気づく。粉砕骨折していたはずの腕も、感覚がなかったはずの足も驚くほど軽い。周囲を見渡せば――そこは見たこともない巨大な樹木が立ち並ぶ森の中だった。そして俺の目の前には一羽の大きな鳥が止まっていた。


「鳥が……喋ったのか?」

「喋る? 我らは常に謳っている。それを聞き取れる貴様が奇妙なだけだ」


 鳥は羽を整えながら面倒そうに答えた。

 理解するのに数分かかった。俺は死に――どうやら別の世界へやって来たらしい。しかも――なぜか動物たちの意思が明確な言語として脳内に流れ込んでくるようになっている。


 鳥の言葉通りなら――普通はこの世界でも動物と人間は言語による意思疎通が出来ない。


「人間のいる場所を教えてくれないか?」

「あっちだ」


 俺は鳥の示した方角へ歩き出した。


「ありがとう、助かったよ」


 騎手として培った体幹とバランス感覚は、この新しい身体にも刻まれている。森を抜けて人の気配がする方へと進むと丘の下に広大な牧場が見えてきた。そこが俺の新しい戦場との出会いの場所だった。


「はあ、また死に損ないが増えたわね。ねえ、そこの貴方。立ち位置を理解しているかしら? 貴方は今、この『銀翼の蹄』厩舎の神聖な敷地に許可なく足を踏み入れた不審者よ。とりあえず、その薄汚れた服と一緒に肥料溜めにでも飛び込んで消毒してきたらどう?」


 これがこの世界で最初に交わした人間との会話だった。声の主は紫がかった長い髪を艶やかに波立たせ、冷徹な美貌を湛えた少女だった。直後に知ることになるが名をセリアというらしい。手には帳簿があり俺をゴミを見るような目で見据えている。


「あ、あの……セリアさん、そんなに酷い言い方をしなくても……えっと、ごめんなさい! 悪い人じゃないです……多分……ような気がします……多分……どうなんだろう?」


 セリアの背後からおどおどと顔を出したのは、対照的に柔らかい印象の少女だった。栗色の髪を短く結い、大きな瞳を潤ませて俺を見上げている。彼女はセリアの毒舌に怯えながらも、俺を庇おうと服の裾をぎゅっと握り締めていた。


「ミア、貴方のそのお人好しセンサーは故障していることで有名でしょう? それよりだったわね、そこのアメーバ。なにをしに来たの? 施しを乞いに来たのなら生憎うちは慈善事業じゃないわ。馬以下の労働力しか提供できない無能は今すぐ踵を返して野垂れ死んで頂戴」


 セリアの言葉は容赦なかった。一切の妥協を許さない鋭利な言葉の刃だ。俺は苦笑いしながら正面から彼女の視線を受け止めた。


「俺は蓮だ。仕事を探してる。馬の世話なら誰よりも上手くやれる自信がある」


「はあ? 笑わせるわね。その細い腕でなにができるの? うちにいるのは並の乗り手じゃ御せない気性の荒い馬ばかりよ。特に――」


 セリアが視線を向けた先、一段と頑丈な補強が施された厩舎の一角があった。そこから大地を揺らすような激しい衝撃音が響く。


「ドォォォォォン!」という壁を蹴り破らんばかりの音だ。


「ヒヒィィィィィンッ!」


 狂気を帯びた嘶きだ。ミアが「ひぃっ!」と短い悲鳴を上げて俺の背後に隠れた。


「あの子……バハムートがまた暴れてるんです。もう三日も食事を受け付けなくて、近づく人全員を蹴り殺そうとして……領主様からは明日までに御せなければ処分しろって言われてるんです」


「黒い死神ね」


 セリアが捕捉する。ミアの声は震えていた。俺は無言で黒い死神と呼ばれる馬の檻へと歩き出した。


「ちょっと、無視しないでよ! 死にたいの? 貴方みたいな素人が近づけば一瞬で首の骨を折られるわよ!」


 セリアの鋭い制止が飛ぶが、俺の耳には別の音が届いていた。荒れ狂う蹄の音の裏側に張り付いた切実な「叫び」だ。


「名前は?」

「バハムート」


 檻の前に立つとバハムートがその巨躯を震わせ赤い瞳で俺を射抜いた。漆黒の馬体は異世界特有の魔力を帯びているのか、陽炎のような黒いオーラを纏っているように見える。前脚を高く上げ俺を踏み潰そうと威嚇した。


『失せろ! 失せろ失せろ失せろ! 我を縛る鎖どもめ! この誇り高き魂を貴様らのような醜い生き物の道具にしてたまるか!』


 その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中に熱いものが込み上げた。前世で出会った――数々の名馬たちだ。人間の勝手な期待や欲望に晒され時に心を閉ざしてしまう。だが目の前のこいつほど純粋で、深い傷を負った馬を俺は知らない。


「安心してくれ。誰もお前を縛りに来たんじゃない」


 俺の声にバハムートの動きが僅かに止まった。背後でセリアが息を呑むのがわかる。ミアは祈るように手を組んでいた。


「お前さ、右の後ろ脚、まだ痛むんだろ?」


『な……ぜ……それを?』


 バハムートの意識が困惑に揺れた。俺はゆっくりと柵の隙間から手を差し入れた。急がず、威圧せず、ただそこに理解者がいることを示す。


「俺はレン――お前たちと会話できる騎手だ。信じろとは言わない。だが、一度だけ俺にお前の背中を貸してくれないか? 本当はどれだけ高く遠くへ飛びたいのか証明させてくれ」


『貴様、死ぬぞ。我の速さはニンゲンの器では耐えられぬ』


「死ぬわけねえだろ。俺はお前みたいな奴と一緒に風になるために騎手になったんだからな」


 俺は閂を外した。


「正気なの?」というセリアの叫びも「レンさん、駄目です!」というミアの涙声も今は遠い。


 俺が檻の中へ足を踏み入れた瞬間、バハムートは一瞬だけ鼻を鳴らし頭を下げた。それは初めて人間に見せた降伏ではなく共鳴の証だろう。


 俺は一切の馬具を使わなかった。鞍も轡も鞭もだ。たてがみを掴み広い背中へと飛び乗る。


「嘘……あの子が背中を許すなんてあり得ない」


 セリアの呆然とした呟きが聞こえた。


「行こう、バハムート。お前の本当の走りを見せてやれ!」


 俺が膝で軽く圧力をかけるとバハムートは応じた。次の瞬間、世界が爆発した。


 静止状態から一歩で最高速に達するような凄まじい加速。普通の人間なら振り落とされるどころか加速のGで意識が飛ぶだろう。だが、俺の身体は吸い付くようにバハムートの背と一体化していた。筋肉の躍動、骨格の連動、血液の熱さ。そのすべてが身体の一部のように感じられる。


 厩舎を飛び出し広大な草原へと駆け出す。 風が咆哮を上げ耳元を通り過ぎる。


『おおおおおっ! これだ! この感覚だ!  痛くない……重くない! 貴様、何者だ!』


「言っただろ? 俺はお前の相棒だ!」


 バハムートの走りは、まるで重力から解き放たれたようだった。草原の起伏を飛ぶように越え、光の筋となって大地を駆ける。元騎手として数多のレースを経験してきた俺ですら――この感覚には震えた。これは乗馬じゃない。魂が混じり合う神聖な儀式だ。


 大きく弧を描き俺たちは呆然と立ち尽くす二人の元へと戻ってきた。急停止。蹄が土を巻き上げ静寂が戻る。バハムートは満足げに鼻を鳴らし、俺の肩に優しく頭を預けた。


「なっ……信じられない」


 セリアが初めて毒を忘れた顔で俺を見つめていた。その頬は興奮からか僅かに赤らんでいる。


「ただの無能じゃないみたいね。いえ、訂正するわ。変態的なまでの馬馬鹿ね。ふん、合格よ。うちで雇ってあげてもいいわ。死ぬまで馬の糞にまみれて働きなさい」


「ひゃ、ひゃあ! レンさん、凄いです! 凄過ぎますぅ! バハムートちゃんが、あんなに嬉しそうにしてるの、初めて見ましたぁ!」


 ミアはぴょんぴょんと飛び跳ねて喜び、それから恥ずかしそうに俺の手を握った。


 俺はバハムートの首筋を撫でながら空を仰いだ。異世界の空は前世よりもずっと高く澄んでいた。かつての栄光も、挫折も、死も、すべてはこの瞬間のためにあったのかもしれない。


「ここから始めてやるさ」

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