第9話 教祖と名乗る男①

東地は朝早く、月に一度は仕事で訪れるお屋敷の門前に立っていた。

急な申し出にもかかわらず、家主はすぐに面会を許してくれた。


立派な門構え。表札には、整った筆致で「前条寺」とある。


呼び鈴を押し、名を告げる。


「東地です」


間を置かず、澄んだ声が返った。


「お待ちしておりました」


歩き慣れた石畳の道。

足取りは軽やかに見えて、胸の奥は鉛のように重い。


玄関に姿を現したのは、この家の娘・和香子だった。

いつも通り、柔らかな笑みを浮かべている。


「朝早くからご迷惑をおかけします」


「いえ。おばあ様がお待ちです。どうぞお入りください」


促され、東地は軽く頭を下げた。


「浅子様のご様子は?」


「落ち着いていらっしゃいます。

食事も済ませて、今はお部屋でゆっくりと」


「……そうですか」


わずかに曇った言葉尻。

和香子はその変化を逃さず、首を傾げた。


「先生。……何か、言いにくいご相談ですか?」


東地は苦笑し、視線を外す。


「おばあ様は先生をとても信頼しています。

困った時こそ頼ってください」


「……だといいのですが」


案内されたのは、いつも訪れる部屋。

ノックをすると、すぐに中から穏やかな声が返ってきた。


「どうぞ、入ってちょうだい」


「では、ごゆっくり」


和香子がそう言い残し、扉を閉めた。


部屋には午前の日差しが柔らかく差し込んでいる。

ベッドに腰掛けた浅子が、微笑みながら手を伸ばした。


「おはようございます、先生。こんな時間に訪ねてくるなんて

……よほど困ったことがあるのね」


「……正直、迷いました」


「話してごらんなさい。

私で役に立てることなら、力になりたいと思っているのよ」


浅子の笑みは変わらず優しい。

だからこそ、東地は躊躇していた。

けれど時間は残されていない。

古川を救うには、この家の“扉”を開けなければならない。


東地はまっすぐに視線を向け、真剣な声音で告げた。


「……清人さんに、会わせていただけませんか」


浅子の目が大きく見開かれる。

しばしの沈黙ののち、彼女は長く息を吐いた。


「……知っていても、会う理由があるのね?」


「はい」


清人――浅子の孫であり、和香子の兄。

家に縛られることを嫌い、自由を求めて飛び出した青年。

そして、宗教団体を立ち上げ、初代教祖・香奈枝を殺め、蟲毒へと変えた男。


その罪を、誰も裁けなかった。

父が官僚で、前条寺家が政界に顔が利く大地主であるがゆえに。


五年前。

羽生が単身で前条寺家に乗り込もうとした時、必死に止めた記憶が蘇る。

医師として出入りしていながら、何もできなかった自分の無力さも。


浅子はもちろん、すべてを知っていた。

それでも彼女にとって清人は――愛しい孫のままだ。


「もう五年になるのね……あの子が“教祖様”と呼ばれるようになってから」


東地は答えない。答えられなかった。


浅子はゆっくりと、けれど迷いのない声で続けた。


「ちょうど明後日、清人を交えた食事会があるの。

よろしければ参加なさい。主治医として紹介するわ」


「……よろしいのですか?」


「ええ。あの子も、そろそろ罪を償う時なのかもしれないわ」


浅子は静かに笑う。

その笑みの奥に、深い哀しみが滲んでいた。


東地は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「先生」


「はい」


「羽生先生に……長い間ごめんなさいと伝えてください」


浅子の瞳が潤む。


「人の道を外れても、あの子は私のかわいい孫なの。

変われるなら、代わってやりたいと思うくらい……。

でも、駄目ね。悪いことは悪いと認めさせなければ。

死んだら、あの人に説教されちゃうわ」


涙をこぼしながら、彼女は静かに言葉を結んだ。


「東地先生……いえ、浅葱先生。あの子を、どうかお願いします」


東地は深々と頭を下げ、沈黙で応じた。


部屋を出て、足早に玄関へ向かう。

和香子が変わらぬ笑顔で見送った。


車に乗り込むと、ちょうど点野から電話が入る。


『アポイントは取れた?』


「はい。明後日、仙稜亭で食事会があるそうです。

主治医として参加させてもらえることになりました」


『仙稜亭……いいね。僕も料理人として入れるようにしておくよ』


「助かります。では、明後日よろしくお願いします」


『うん』


通話を切ると、東地は深く息を吐いた。

絡み合う想いは多い。

だが最優先は――古川だ。


優しい人間だと思われがちだが、自分は知っている。

懐に入れた者以外には、驚くほど冷淡になれることを。


「……僕は、神にも仏にもなれませんね」


皮肉めいた呟きとともに、車のエンジンが静かに目を覚ました。

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