第8話 領域⑨
「――僕をここに呼ぶために、古川さんを利用したんですね?」
静かな声なのに、怒気が滲んでいた。
その瞬間、空気が凍りつく。
普段、滅多に感情を荒げない東地先生が――明確な怒りを露わにしている。
私は反射的に先生を見上げた。
険しい表情。鋭い目。
まるで相手を斬り捨てる刃みたいに冷たい。
女性――香奈枝さんは、視線を落としたまま小さく息を吐いた。
「……彼女を利用して傷つけたことに怒っているのは理解してるわ。
ごめんなさい。でも、もう時間がないの」
「ならば、僕の答えも分かりますね?」
先生の声は低く、氷のように冷たかった。
けれど私は、先生が何を拒絶しようとしているのか理解できず、ただ首を傾げる。
「……」
沈黙が落ちる。
先生は、切り捨てるように告げた。
「そう。返事は――NOです」
鋼のように硬い言葉が、空間を切り裂いた。
香奈枝さんの肩がわずかに揺れる。悲しそうに目を伏せた。
何を拒絶しているのか分からない。
でも困っている人を助けたい気持ちが先に立って、私は思わず先生の腕を掴みかけた。
「力になれるなら、先生――」
その先を言う前に、先生の掌が私の唇を塞いだ。
「言葉にしてはいけません。君の願いでも、こればかりは」
真剣な眼差しに射抜かれて、息が止まる。
そこには揺るぎない決意と、越えられない境界があった。
――私の出る幕じゃない。
そう悟って、私は小さく頷いた。
「……はい」
先生はわずかに安堵したように息を吐き、手を離す。
香奈枝さんが、かすれた声で呟いた。
「……そう」
その直後、空間がざわりと揺れる。
見えない壁をすり抜けるように、黒いアメーバ状の呪物が伸び上がり、
私の腰へ絡みついた。
「うわっ――!」
悲鳴を上げる間もなく、私は壁の向こうへ引きずり込まれた。
先生が伸ばした手は壁に阻まれ、指先が虚空を掴む。
「本当に時間がないの。悪いけれど、この子は人質にさせてもらうわ」
香奈枝さんの声が、冷たく響いた。
壁の外から見える先生の表情は、怒りに染まっていた。
私は足手まといになった悔しさで、胸が焼ける。
それでも、叫ぶ。
「先生! 私は大丈夫!
引き受けたくないことなら、ちゃんと断って!」
先生は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
そしてすぐに、氷のような眼差しで香奈枝さんを見据える。
「……タイムリミットは?」
「……五日が限界ね。
間に合わなければ、弟と彼女は呪物と一緒に取り込まれる」
「腸が煮えくり返りますね」
先生の声が低く沈む。
「……本音を言えば、古川さんさえ無事なら、あなた達姉弟などどうでもよかったのですが」
「相変わらずね。最近は丸くなったと思っていたけど」
「古川さんに余計なことを吹き込まないでください。
……ええ、面倒ですが、ご要望通りに片付けて差し上げますよ」
淡々としたやり取り。冷ややかで、鋭い。
私は冷汗を流しながら、二人の会話を聞くことしかできなかった。
香奈枝さんが息を吐き、こちらへ視線を向ける。
「安心して。彼女は丁重にもてなすわ。
もっとも、私の意識が残っている間だけだけどね。
一日に数時間しか保てないから……
彼女が呪物に取り込まれる前に急いでお願いね」
“もてなす”――その言葉が、逆に怖い。
私は喉の奥がきゅっと締まった。
先生はふっと表情を和らげ、私へ視線を向けた。
「すみません、野暮用ができてしまいました。
あと五日、我慢していただけますか? 必ず迎えに来ますから」
「私は大丈夫です。先生、危険なことは――」
「大丈夫ですよ。心配しないで」
先生は壁に手を添えた。
私も同じ場所に手を重ねる。
触れられないのに、重なった掌の位置だけが――
約束の印みたいに、心を支えてくれた。
「……そろそろ戻ります。点野君、お願いします」
先生が印を結ぶ。
光の粒子が先生の体を包み、螺旋を描きながら立ち上る。
そのまま、先生の姿は闇に溶けるように消えた。
あっという間の別れ。
胸に寂しさが募り、思わず名前を呼びたくなる。
――先生。
その時、背後から声が刺さった。
「あんた……あのお祓い屋と、どんな関係?」
振り向けば、但馬さんがじろりと睨んでいる。
私は首を傾げ、素直に答えた。
「東地先生ですか? 仲の良いお友達です」
「オトモダチ、ねぇ……。向こうはそう思ってないと思うが」
「そうなんですか?
……私が思ってるほど、先生は気を許してくれてないってこと?
それはショックだなぁ」
「ショックなのは、むしろ向こうだろ。報われなさすぎだ」
「?」
私がきょとんとしている横で、香奈枝さんが「はぁ……怖かった」とへたり込んだ。
空気が、さっきまでと別物みたいに緩む。
「姉貴! さっき呪物とフュージョンしてたんじゃねぇのか?」
「してたわよ。普段はあの気持ち悪い呪物の中にいるんだから。
ただ、一日に数時間だけ自由になれるの。力比べね。私が勝った時だけ」
姉弟の軽口が飛び交う。
私はふと思い出して、恐る恐る尋ねた。
「……香奈枝さん、ですよね?」
「そうよ。よく知ってるわね」
「怖かったって……呪物が、ですか?」
「違うわよ。あんたの先生よ。呪物よりずっと怖い男がいたでしょ?」
「……先生が、呪物より?」
「そう。最恐のお祓い屋。もちろん最強でもあるけどね」
苦笑する香奈枝さん。
私は胸の中で「最恐」を転がす。
――確かに、さっきの先生の視線は背筋が凍るほどだった。
香奈枝さんは深く頭を下げた。
「悪いけど利用させてもらったわ。あなたの存在をね。ごめんなさい」
「いえ……」
大丈夫、と言いかけて言葉が詰まる。
だって、本当に大丈夫じゃない。
香奈枝さんは続けた。声が少しだけ弱い。
「大丈夫じゃないのよ。……依頼が終わったら、私は消されるかもね。
あなたに怪我をさせたから」
「怪我……?」
「この馬鹿弟を助けようと触ったでしょ? そのとき瘴気で火傷したのよ」
「あ……そうなんですか」
意識が戻った時、痛みだけは勘弁してほしいな、と心の中で苦笑した。
でも現実は、そんな都合よくいかない。
すると但馬さんが、苛立ち混じりに口を挟む。
「ところで姉貴、どうやってコイツをこっちに引き入れたんだ?」
「ああ、それは……媒体よ。互いに持ってたでしょ?」
「媒体?」
私はポケットを探り、あの小さな袋――ハンカチを取り出した。
青い花の刺繍。手の中で、静かに存在を主張している。
これが引き金だったのか――。
但馬さんの視線が、ハンカチに刺さった。
「……なんでお前、持ってんだよ」
不機嫌そうな声。
香奈枝さんが弟の頭を軽く小突く。
「何言ってんの。忘れられたくなくて念込めて贈ったくせに」
「え、そうなんですか?」
「ち……違ぇよ!」
また始まる姉弟喧嘩。
そのやり取りを眺めながらも、私の意識は壁の向こうに消えた先生に引っ張られていた。
五日。
先生は、五日で片をつけると言った。
――先生。
どうか無事で。
どうか、私のせいで無茶をしないで。
祈ることしかできない自分が、歯がゆい。
私はハンカチを握りしめ、闇の中で静かに息を吐いた。
この五日間が、私の“待つ”だけの時間で終わるとは、思えなかった。
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