第8話 領域⑧
見えない壁の向こうに、但馬さんがいる。
そして、そのさらに向こうに――蠢く“それ”がいる。
状況を理解しようとしているのに、脳が追いつかない。
私はしばらく、ただ立ち尽くしていた。
……私も死んでるなら、どうして壁があるの?
どうして痛みを感じるの?
死んだらもっとフワフワして、壁もすり抜けられる便利な存在になるもんだと思ってたのに。
しかも「お迎え」は?
親とか身内とか、会いに来てくれるって聞いたことあるけど。
え、誰も来ないの? 両親! お父さんお母さん!
一人娘がこんなことになってるのに薄情者か!
――いや、待って。今はそこじゃない。
目の前の“呪い”を、どうにかできないのか。
悪い大人に利用され、殺され、呪物にされて、なお苦しんでいる。
可哀想すぎる。許せない。
教祖だか何だか知らないけど、ぶん殴ってやりたい。
……今のお化け状態を活かして脅かしてやれないかな。
「……オイ」
はっと我に返る。
声の方を見れば、案の定、呆れ顔の但馬さんがこちらを見ていた。
暗いから輪郭しか分からないのに、“呆れ”だけははっきり伝わってくる。
「俺の身内のことは俺がどうにかする。余計なこと考えんな。
……てか、“化けて脅す”って何?」
「えっ、すご! エスパー? 私の考えてること分かるんですか!」
「声に出してんだよ! こんな状況で能天気すぎるだろ!」
「あ、声に出してましたか……。でも深刻には考えてますよ?
だって、このままお迎え来なくて地縛霊になったら嫌だし。
その前にお姉さん助けたいし。
でも但馬さんだって呪詛の仲間入りは嫌でしょ?」
「言い方! 嫌に決まってんだろ。
……てか、俺に何もできねーのに、お前に何ができんだよ」
「えーっと……癒し? 引き寄せ? 東地先生がそう言ってました!」
「引き寄せられる、の間違いじゃねぇの?
そのポンコツスキルのせいでここまで来たんだろ」
「うわ、それ禁句。凹むじゃないですかー!」
「じゃあ凹んどけ。ぺしゃんこになるくらいにな」
「ひどっ!」
掛け合い漫才みたいに言い合っていた、その時だった。
――ぬるり。
闇の奥で、蠢く影が形を変えた。
意志を持った泥のように伸び、壁の向こうの但馬さんへと襲いかかる。
「っ――!」
但馬さんが身を捻ってかわす。だが影は執拗に追い、腕に絡みつこうとする。
「大丈夫ですか!? まだ呪物とフュージョンしないでくださいよ!
私ひとりになったら嫌です!」
「言い方ふざけんな! スーパー呪物になる気はねーよ!
……てか心配そこかよ!」
「当たり前じゃないですか! ボッチは嫌です!」
「自己中か!」
影が跳ねる。
床を這い、天井を舐めるように伸び、また襲いかかる。
でも但馬さんは、もう慣れているみたいに
――いや、慣れたくて慣れたわけじゃないのに、身体が勝手に覚えてしまったみたいに、ぎりぎりでかわし続けている。
その必死さが、怖い。
私は壁に手を当てた。
何もできないのが悔しくて、せめて自分の存在だけでも向こうに伝えたくて。
そのときだった。
背中から、ふわりと抱きしめられる感覚が走った。
温度がある。
怖いほど優しい温度。
「賑やかですね」
頭の上から降ってきた声に、私は息を呑んだ。
「……えっ」
聞き慣れている。落ち着いた声音。
胸の奥が一気に熱くなる。
「東地先生!?」
振り返ると、そこには柔らかな笑みを浮かべた先生がいた。
闇の中でさえ、その存在だけが妙に“現実”の手触りを持っている。
「迎えに来ましたよ」
「……お迎え!? 先生って天使だったんですか!?」
「残念ながら違います。それに古川さんは“死んで”はいませんよ」
「え? ほんとに? ていうか先生、どうやってここに――」
「点野君に頼みました。
長くはいられませんが……放っておくと本当に危ないので」
点野さん。
あの人、何者なの。怖い。
「それより先生! 先生まで危なくなったら大変! 早く戻って!」
「だから古川さんも一緒に戻ります。……それでいいですね?」
先生の目が真剣になる。
冗談の余地を許さない真剣さ。
「……あ、はい」
頷きながら、私は思わず但馬さんを見る。
先生もまた、壁の向こうへ視線を向けた。
「君は、この境界の意味を理解しているはずですね?」
但馬さんは短く笑った。
「ああ。……自分で仕掛けたんだからな」
「……その結果、君も呪物の贄にされようとしている」
「仕方ねぇだろ。アイツが一枚上手だった。それだけの話だ」
淡々とした返答。
諦めているようで、どこか自嘲が混じる。
先生は、静かに続けた。
「君はそう考えるかもしれません。
ですが、君のお姉さんは――そうは思っていなかったようですよ」
空気が変わった。
闇が一段冷える。
但馬さんの気配が、一瞬だけ鋭くなる。
「……どういう意味だ?」
先生は、壁の向こうの“それ”に目を向ける。
「ご本人に聞いてみたらどうです?」
その瞬間だった。
呪物の動きが、ピタリと止まった。
ずるずる、と形が崩れる。
アメーバ状の影が床へ流れ落ち、黒い泥のように広がっていく。
そして――そこから、ひとりの若い女性が立ち上がった。
長い髪。
鈴の音が残り香みたいに、耳の奥で鳴った気がした。
あの夜。私の部屋に現れた女の人。
「神社……たすけて……」と呟いた、幽霊の女性。
――そうか。
この人が、但馬さんのお姉さん。
「……姉貴?」
但馬さんの声が、初めて揺れた。
驚きと、信じられない気配が混ざっている。
先生はその女性へ、静かに声を掛けた。
「――僕をここに呼ぶために、古川さんを利用したんですね」
穏やかな口調なのに、怒りが宿っている。
普段の先生からは想像できないほど、冷たく鋭い怒気。
闇が凍りつくみたいに、場が静まった。
女性は目を伏せる。
謝罪なのか、決意なのか分からない沈黙の中で――
先生の瞳だけが、揺れずにこちらを見据えていた。
(先生……)
胸の奥が、いやな予感で締めつけられる。
この先で交わされる“取引”は、きっと私の想像よりずっと残酷で。
そして先生は――それを断ち切るために、ここへ来た。
私は壁に手を当てたまま、息を殺した。
闇の向こうで、何かが動き出す気配がした。
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