第8話 領域⑦

気がつけば、私は薄暗い闇の中に立っていた。

空気は重く、音が吸い込まれていくみたいに静かだ。


夢の中なのだろうか。

それとも――夢じゃないのだろうか。


どうして、こんな場所にいるの。


不安を押し殺して辺りを見渡した瞬間、背後から低い声が落ちた。


「……なんで、あんたがここにいんの?」


「え……?」


暗くて表情までは見えない。

でもこの声音は、耳が覚えている。


「……但馬さん?」


名を呼ぶと、短い溜息が返ってきた。


「当たり」


その一言で、胸の奥に詰まっていた息がほどける。


「よかった……! 無事だったんですね。

意識がなかったから、ずっと心配してたんです」


安堵して駆け寄ろうとした――その瞬間。


ゴンッ。


額に鈍い痛みが走り、身体が押し返された。


「痛っ……なにこれ」


手を伸ばすと、そこには透明な壁のようなものがあった。

触れるとひやりとして、固い。

空気の膜じゃない。はっきりと“境”だ。


「壁……?」


「それは、俺とあんたの境界線だ」

「境界線? ……心の? 何気に傷つきますよ」


つい軽口が出る。

けれど但馬は、鼻で笑った気配だけを落とす。


「ぶっ……それもあるかもな。

でも多分、生と死の境界線だ。俺は――もう、終わってんだろ」


「……え?」


冗談みたいに言っているのに、声の底が沈んでいる。

笑いの形を作ったまま、そこから先だけ冷える。


「逆に聞くけど、あんたはなんでここにいんの?

……あんたも死んだのか?」


「わ、私が……死んだ?」


頭の中で、映像が一気に巻き戻る。

夜中に現れた女の幽霊。神社。御神木に縛られていた但馬。

触れた瞬間、身体を貫いた衝撃――そして暗転。


――え? あれで私も?


喉の奥がきゅっと閉まって、冷たいものが背中を這う。


「巻き添え食らうから構うなって言ったろ。

……ほんと何やってんだか。俺のせいじゃねえからな。恨むなよ」


「恨みませんよ。ただ……自覚が無かったから、びっくりしただけで」


口ではそう言った。

でも、胸の奥には別の感情がじわじわ広がっていく。


先生や羽生さんに知られたら、きっとめちゃくちゃ怒られる。

……いや、死んでるなら怒られることもないのか。


会えないのか。

もう、二度と。


込み上げてくるものを必死で飲み込んだ。

泣いたら、ここが本当に“終わりの場所”になってしまいそうで。


「……そういえば、但馬さん」


声が震えないように、私はわざと平静を装う。


「お姉さんは……どうなったんですか?解放されたんですか?」


沈黙。

そして、刺すような気配。


「……なんで知ってんだ?」

「少しだけ事情を……すみません」


言った瞬間、自分でも分かった。

これは踏み込みすぎた。拒絶されても仕方ない。


でも但馬は、短く息を吐いただけだった。


「……まぁいい。姉貴はまだ解放できてねぇ」

「え……?」

「正面、見てみろ」


私は闇の向こうへ目を凝らした。

視界の奥で、何かが“蠢いた”。


ゆらり。

濃い影が、形を持たないままうねる。

生き物みたいに脈打ち、嫌な気配が皮膚の内側を撫でる。


「な、何ですかあれ……」


「呪詛のなれの果て。

姉貴と……巻き込まれたもんの、寄せ集めだ」


寄せ集め。

その言葉だけで、喉がひりついた。


「……あの男が、姉貴を“箱”にした」


「箱……?」


但馬の声が低くなる。


「呪いを溜めて増幅させるための、古い呪具だ。

名前だけ聞いたことあるだろ。――コトリバコ」


私は息を呑む。

噂話で、都市伝説で、怖い話の定番で。

だけどこれは作り話じゃない。目の前に“結果”がある。


「そいつに、姉貴の心臓を“核”にされた。

……だから、姉貴はあのままだ」


「……酷すぎる」


声が震える。

怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。


「だから俺も、今のままじゃ解放できねぇ。下手したら、飲まれる」


「そんな……それじゃ……」


「死に損、ってやつだ。……あの男の計算通りにな」


但馬は苦笑した。

その笑いが、ひどく空っぽに聞こえた。


私は透明な壁に手を当てた。

向こう側へ届かないのに、触れてしまう。

届かないからこそ、確かめたくなる。


「……その男って……お姉さんを殺して、教祖になった人ですか?」


「……ほんと、あんた知りすぎ」


但馬は小さく言い、蠢く影をじっと見つめ続けた。

その横顔は見えない。

けれど“見てはいけないもの”を見続けてきた人の気配だけがあった。



真夜中の総合病院。

東地は羽生に呼ばれ、理由を聞くまでもなく駆けつけていた。


LINEに送られてきた古川からの画像。

御神木に縛られた男。

そして、以降――既読にならない画面。着信にも応じない彼女。


静かな院内を足早に進み、エレベーターで最上階へ。

面会謝絶の札が下がる扉を押し開けた。


ベッドに横たわる古川。

全身に管が繋がれ、意識は戻らない。


「古川さん……」


名を呼んでも返事はない。

彼女の手には雷に打たれたような火傷の痕が残り、包帯が痛々しく巻かれていた。


東地はその手を、そっと握る。

微かな体温はある。脈もある。

――生きている。生きているのに、遠い。


「こんなことになるくらいなら……」


喉の奥で、言葉が濁る。

次に出かけた文は、刃みたいだった。


「……あの男を先に止めておけばよかったですね」


「おいおい。医者が物騒なこと言うなよ」


振り返ると、羽生が入り口に立っていた。

苦笑を浮かべながらも、声には疲労が滲んでいる。


「警察の聞き取りは終わった。

……お嬢、両親を早くに亡くして、一人だったんだな。身内にも連絡がつかねぇ」


「そうでしたか……」


東地は短く息を吐いた。


「保証人なら、僕が」


「そこまで急ぐ必要はねぇ。

それより……なんで真夜中の神社なんかに行った」


「LINEで画像が送られてきたんです」


東地は携帯を渡した。

羽生の目が見開かれる。


「……あいつに呼ばれたのか」


「おそらく。でなければ、あんな場所に行く理由はありません」


羽生が舌打ちを噛み殺す。


「いや、でもよ……引き寄せだとしても出来すぎだろ」


「媒体を持っていたか、あるいは――」


東地は画像を拡大し、御神木の後ろを指差した。

暗がりに、薄く――長い髪の女が映っている。


「……香奈枝……?」


羽生の顔色が変わる。

一瞬、時間が止まったみたいに表情が固まった。


「彼女が古川さんを呼んだ、という可能性もあります」


羽生は奥歯を噛みしめる。


「弟の危険を察知して、か……」


「そうだといいんですがね」


東地はそう呟き、古川の顔を見つめ直した。

眠っているように静かな顔。

けれどその静けさの向こうで、何かに引かれている気配がする。


東地は古川の手を握り直し、低く息を吐く。


「……帰ってきてください」


祈りのように。命令のように。

その言葉だけが、静かな特別室に落ちた。

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