第8話 領域⑥

夜の勤務があるとのことで、羽生さんは帰って行った。

先ほど聞かされた話はあまりにも衝撃的で、胸の奥にまだ重く沈んでいる。


どうにも消化できずにいる私の前に、コトリと音を立ててコーヒーが置かれた。

香ばしい香りが立ち上り、ようやく意識が現実へ引き戻される。


「大丈夫ですか?」


東地先生が心配そうに私の顔を覗き込む。

その優しい眼差しに張り詰めていたものがほどけて、気づけば私は先生の肩に顔を埋めていた。


「なんだか……心が痛いんです。感情が、消化しきれなくて」

「古川さんにそんな思いをさせたくなくて、隠していたんですがね」

「そんな先生たちの思いを無駄にして……私、駄目ですね」

「そんなことはありません」


先生の声は静かで、確かだった。


「これは必然なんだと思いますよ。

古川さんに“知ってほしくて”、見えない力が働いたんでしょう」


「え……ちょっと怖いんですけど?」


先生は薄く笑う。


「最強の引き寄せ、です。ふふ」

「そんな引き寄せ、いらないなぁ……」


苦笑すると、先生も小さく笑った。


「……羽生さんは強い人ですね。本当は自分が一番辛いはずなのに」

「そうですね。ただ、この五年は彼なりに色々あったんですよ」


「五年……」


長かったのか、短かったのかは分からない。

けれど核心の部分では、何ひとつ解決していないのだろう。

そして但馬さんにとっても、それは“準備の五年”だった。


――昨日今日で知り合った私なんて、しゃしゃり出てくんなって思うよね。

何も知らないくせに。……私だって、そう思う。


「先生は……何を思ってお祓いをされているんですか?」


先生は一瞬だけ考えるように目を伏せ、すぐに答えた。


「んー、実は特には何も考えていないんですよ」


「え?」


「医者と同じです。この病気にはこの薬、のように。

この症状にはこのお祓い。――そんな感覚です」


「……なるほど。そこに私情は挟まないってことですね」


「冷たいようですが、そうです。

全部に感情移入していたら、身が持ちませんから」


先生は苦笑して、コーヒーを一口含む。


「ただ、これだけは覚えておいてください」

「はい?」


先生の視線が、まっすぐに私へ落ちた。


「もし古川さんが危険に晒されたら、全力で助けに行きます。

僕は……懐に入れた人は全力で守りたい男ですから」


「……東地そういうところ……って言いたいところですが、今は本当に、ありがとうございます。……懐から放り出されないよう、頑張らなきゃですね」


少し泣きそうな気持ちで言うと、先生は優しい笑顔で私を抱き寄せて囁いた。


「大丈夫。古川さんは、今のままで大丈夫ですから」



車で家まで送ってもらい、別れを告げる。

去っていくテールランプを見届けてから、私はマンションへ入った。


明かりをつけ、鞄を下ろす。

ふと目に入ったのは、但馬さんからもらった小さな紙袋だった。


中を改めると、青い花の刺繍が入った新品のハンカチが現れる。


「可愛い花……何の花だっけ?」


名前が思い出せず、携帯で検索する。


――ワスレナグサ。


「……忘れろって言ったのに。花言葉は『私を忘れないで』……か」


但馬さんがそこまで考えて贈ってくれたのかは分からない。

でも――大事にしよう。


私はそっとハンカチを鞄へ戻した。


今日は朝から情報過多で、心も体も疲れている。

先生を癒すつもりが、逆に癒されてしまった。……次こそリベンジしなきゃ。


明日は日曜日。家でゆっくり過ごそう。

温かいお風呂に浸かり、私は眠りに落ちた。



草木も眠る丑三つ時。

松川神社の境内、御神木の前にひとりの青年が立っていた。


薄暗い外灯に照らされて浮かぶ顔は――但馬だった。


掌を樹皮へ押し当て、低く呪詛を唱える。

腕に刻まれた刺青のような紋様が、血管のように脈打ちながら伸び広がり、御神木へ“流れ込む”。


――だが次の瞬間。


紋様が逆流した。

まるで獲物を見つけた蔓のように、赤黒い線が但馬の腕へ巻き戻り、喉元へ絡みつく。


「……っ、く……!」


息が詰まる。

樹皮が軋む音がする。

神木が“締め上げている”のか、呪いが“噛みついている”のか分からない。


それでも但馬は笑うように、掠れた声で呟いた。


「……五年か。長かったな……」


視界の端が暗く落ちていく。

それでも口だけは動く。


「姉貴……今……楽にしてやる……」


膝が折れ、身体が傾ぐ。

最後に聞こえたのは、神木の葉擦れ――ではなく、鈴のような、細い音だった。



シャラン……。


鈴の音が聞こえる。

深い眠りの底で、意識だけがぱちりと目を覚ました。――体は動かない。


「え……金縛り?」


声を出そうとしても、喉が震えるだけで音にならない。


(どうしよう……こわい……)


シャラン……。


再び鈴の音。

眼だけを動かして音の方を追うと、暗闇の中に女性が立っていた。


――幽霊?


長い髪。白い輪郭。

顔はよく見えないのに、視線だけがこちらを向いているのが分かる。


「……神社……たすけて……」


女はそれだけを呟き、闇に溶けるように消えた。


神社? 助けて……?

その言葉を反芻した瞬間、但馬さんの顔が浮かぶ。


もしかして――あれは、但馬さんのお姉さん?


胸に、確信めいた直感が走った。


気づけば金縛りは解けている。

飛び起きて時計を見る。午前三時。


迷っている暇はない。


私は上着を引っ掴み、鞄を掴んで部屋を飛び出した。

タクシーを拾い、松川神社へ告げる。


深夜の神社は、底冷えするほど怖い。

来慣れた場所のはずなのに、闇は別物だ。

息が白くなるたび、心臓が早鐘を打つ。


――でも、ここだ。


本能が告げていた。これは“偶然”じゃない。

また別の――引き寄せだ。


階段を駆け上がると、外灯の下に人影が見え、思わず息を呑んだ。


「っ……」


逃げ出したい衝動を押し殺し、恐る恐る近づく。


そこにいたのは、御神木に絡め取られるように縛られた但馬さんだった。


「但馬さん!」


必死に呼んでも、返事はない。

唇の色が悪い。胸が動いているのかさえ分からない。


どうしよう……!


私は震える手でまず 119 にかけ、救急要請を伝えた。

続けて 110。深夜の神社で人が倒れていること、状況が異常であることを告げる。


――どうせ後で先生に知られる。

ならば、と私は現場を写真に収め、東地先生へ送信した。


再び駆け寄り、但馬さんの身体へ触れる。


「但馬さん、大丈夫ですか!」


冷たい。生きている温度が薄い。


私は咄嗟に、御神木へも手を置いてしまった。


――ドクン。


心臓を直に掴まれたような衝撃が体を貫いた。

視界が反転し、耳鳴りが轟く。


(なに……これ……!)


息ができない。

体が痺れ、心臓が暴れ出す。


恐怖と眩暈に呑まれ、私はその場に崩れ落ち――意識を手放した。


最後に見えたのは、御神木に縛られた但馬さんの腕。

刺青のような紋様が、今も生き物のように蠢いている姿だった。

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