新卒だけど、パワポで退職願を作ってみた件

五平

第1話:静かなる絶望の朝

 午前7時30分、山手線のドアが開くたびに、人の塊が粘土細工のように押し込まれていく。

 新卒入社して3ヶ月。佐藤がこの地獄で学んだのは、呼吸を最小限に抑える技術と、意識を自分の内側にある「無」へと沈める方法だけだった。


(今日も、あの音がするんだろうな)


 吊り革を握る指先が、無意識に震える。

 会社に着けば、課長のデスクから飛んでくる「おはよう」の代わりの舌打ち。メールボックスに溜まった、一文字も血の通っていない指示書の山。

 「新卒なんだから、まずは量をこなせ」「ロジックで考えろ」「相手を納得させる資料を作れ」

 耳にタコができるほど聞かされた言葉たちが、今は鋭い棘となって佐藤の脳壁を削っていた。


 オフィスに到着し、自席のPCを起動する。

 パスワードを入力する指が重い。デスクトップが表示された瞬間、昨日やり残した「無意味な集計作業」のExcelファイルが視界に飛び込んできた。


「佐藤、昨日のアレ、まだ終わってないのか?」


 背後から、湿り気を帯びた課長の声が降ってくる。

 振り返らなくてもわかる。彼は今、安物のコーヒーを啜りながら、獲物を見つけた爬虫類のような目でこちらの後頭部を見ている。


「……すみません、あと1時間で終わります」

「1時間? 30分でやれよ。お前、大学で何を学んできたんだ? 論理的思考力、ゼロか?」


 論理的思考。

 その言葉が、佐藤の中で奇妙な反響を起こした。

 課長が去った後、佐藤は無意識にExcelを閉じ、PowerPointを起動していた。


 真っ白なキャンバスが、画面いっぱいに広がる。

 いつもなら「何を書けばいいのか」と怯えるはずのその空白が、今は不思議と、自分を受け入れてくれる広大な宇宙のように見えた。


(論理的に、考えればいいんだな)


 佐藤の指が、吸い付くようにキーボードへ置かれる。

 [挿入]タブから[テキストボックス]を選択。

 震えていた指が、今は驚くほど滑らかに動く。


 『第1スライド:現状分析と、それに基づく離脱の妥当性について』


 カチッ、というマウスのクリック音が、静かなオフィスに小さく響いた。

 それは、一人の青年が「社畜」という皮を脱ぎ捨て、一人の「表現者(狂信者)」へと変貌する、最初の産声だった。


(……そうだ。わかってもらえないなら、プレゼンすればいいんだ)


 佐藤の瞳の奥に、小さな、だが消えることのない冷たい火が灯った。

 物語の「助走」は今、終わりを告げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月13日 20:00
2026年1月14日 20:00
2026年1月15日 20:00

新卒だけど、パワポで退職願を作ってみた件 五平 @FiveFlat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ