第3話 “決着”
「……まじで勘弁してくれよ」
家に帰らず迎えた四日目のオフィス。
イツキは、編集部と廊下の境界に立ち、静かに息を吐いた。
非常灯の淡い緑光が、廊下の奥を不完全に照らしている。
その照度の不足した空間に、黒く濡れた体毛と、異様に細長い四肢が浮かび上がった。
ブラッドウルフ。
低く、粘性を帯びた唸り声が床を伝い、壁を震わせる。
それは音というより、空間そのものが圧迫されるような感覚だった。
イツキは短剣を握り直す。
指先の感覚が鈍い。冷えているというより、血流が末端まで届いていない。
呼吸は浅く、肺の奥まで空気が入ってこない。
酸素不足ではない——それはまさしく恐怖だ。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
正面にはブラッドウルフ。
その手前には、再構築したゴブリンが一体。
「もう何匹作ったか覚えてねぇな」
今のゴブリンの再現率は五二%。
固有スキル《俊敏》が使用可能となる、現状の限界数値。
だが相手は中位魔物だ。
単純な性能差は、理屈でどうこうできるものではない。
「次は囮じゃない。ちゃんと戦え」
イツキは声に出さず、脳内で命じる。
——前に出ろ。
——だが無策に突っ込むな。
——距離を保て。相手の挙動に合わせろ。
ゴブリンが低い姿勢を取り、床を蹴った。
瞬時に距離が詰まる。
《俊敏》が発動した瞬間だった。
ブラッドウルフの爪が虚空を裂く。
だがゴブリンの身体は紙一重でそれを回避し、側面へ滑り込んだ。
「……よし」
視界が、異様なほど鮮明になる。
ブラッドウルフの意識が完全にゴブリンへ向いた刹那、
イツキは走り出した。
ゴブリンの反対側。壁際を低く、足音を殺して。
狙うのは脚。あるいは頸部。
致命傷は不要。必要なのは、ほんの一瞬の隙だけだ。
ブラッドウルフがゴブリンに飛びかかる。
顎が閉じ、鈍く重い衝撃音が廊下に反響した。
だが致命傷ではない。
ゴブリンは即座に身を捻り、床を転がる。
その一瞬の意識の偏り。
——今だ。
イツキは一気に間合いへ踏み込んだ。
短剣を逆手に持ち、床を強く蹴る。
頭の中では、完璧な軌道を描けていた。
だが身体は、あくまで“ただの人間”だ。
ブラッドウルフの尾が、正確無比に閃いた。
「——っ!」
衝撃が肋骨を叩き、壁へと身体を叩きつけられる。
息が詰まり、視界が白く弾けた。
《睡眠時間を1時間使用——残り24時間》
鈍い感覚。
遅れて、骨が折れたことを理解する。
残り少ない時間が、肋骨の再構築へと強制的に割り当てられた。
とはいえ、修復がなければ立つことすらできなかった。
イツキは歯を食いしばり、壁を支えに身体を起こす。
「マジでわけわかんねぇ……」
吐き捨てるように呟いた。
「こんなコンディションの死にかけサラリーマン痛めつけて、何が楽しいってんだよ……!」
恐怖より先に、怒りが湧き上がる。
「まじで殺す。お前を殺して、俺の下僕にしてやる。もう容赦しねぇ」
虚勢に聞こえる言葉だ。
だがそれでいい。今は、それで心を前に押し出すしかない。
「いけ。あいつを殺せ」
ゴブリンが再び前に出る。
呼応するように、ブラッドウルフも唸り声を上げた。
次の瞬間。
ゴブリンの身体が、宙を舞った。
「なっ——!」
爪が閃き、牙が食い込む。
ブラッドウルフの顔が、イツキの正面を向いた。
赤い瞳。
裂けた口。
剥き出しの牙。
距離は二メートルと少し。
イツキは、思考より先に身体を動かしていた。
床を蹴り、低く滑り込む。
死角へ入った瞬間、再構築を発動。
《睡眠時間を4時間使用——残り20時間》
《再現率65%——ゴブリンの再構築に成功しました》
「目を狙え!」
狙いは、ブラッドウルフの右目。
「……っらぁ!!」
短剣が先に到達した。
柔らかな感触。
湿った音。
ブラッドウルフが咆哮する。
衝撃波が廊下を揺らし、イツキとゴブリンは後方へ弾き飛ばされた。
直後、ゴブリンが引き裂かれる感覚が脳裏を走る。
《睡眠時間を3時間使用——残り17時間》
「ったく……」
息が荒い。
全身が震えている。
だが、終わってはいない。
ブラッドウルフは立っていた。
片目から血を流しながら、なおも殺意を剥き出しにして。
「何匹殺せば気が済むんだ?」
イツキは、折れた短剣をゆっくりと掲げる。
「まぁ、俺もゴブリンばっか見飽きてたからな。これで最後にしよう」
刃先を、ブラッドウルフへ向ける。
「なあ。この先っぽ、どこ行ったかわかるか?」
一拍置いて、続けた。
「……お前の右目の中だよ」
そう言い切り、念じる。
「——再構築だ」
魔力が、ブラッドウルフの右目に集束する。
そこでようやく、ブラッドウルフは理解した。
自分の身体そのものが、敵の支配下にあるという事実を。
だが、遅い。
欠けた刃が魔力を吸い、本来の形へと再構築された瞬間。
眼窩の内側で短剣が形を取り戻し、そのまま脳内へ侵食する。
内部破壊。
ブラッドウルフは、声にならない音を残して崩れ落ちた。
「……はぁー」
深く、長い息を吐く。
運が良かった。
手元を離れた物体でも、一度構造を把握していれば再構築できる——その仮説が、たまたま当たっただけ。
その一か八かを、イツキは勝ち——生き残った。
ゴブリンと同じように、ブラッドウルフの身体からも核が落ちた。
イツキかそれを拾い上げた瞬間だった。
廊下の奥から、甲高い悲鳴が響いた。
『きゃあああっ!!』
それは人間の声だった。
イツキははっ、と顔を上げる。
頭は重く、視界は滲む。
それでも、足は自然と前へ動いていた。
「……次から次へと、なんなんだよ」
ここはブラック会社だ。
深夜に人が残っていても、不自然ではない。
声を聞いてしまった以上、無視はできなかった。
イツキはふらつく身体を引きずりながら、
悲鳴のした方へと走り出した。
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勤めているブラック会社がダンジョンと化しました。 〜三徹不眠の末に得たスキル『再構築』で、俺は人生を作り替える〜 つきなみ。 @ruka0101
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