第1話 “豪運”

 ——十二歳の時だった。


 ダンジョンの崩落に巻き込まれ、瓦礫の下で泣き喚いていた自分を、見知らぬ冒険者が引きずり出してくれた。

 血と埃にまみれながら、それでもその人は笑っていた。


『大丈夫だ。まだ生きてる』


 その言葉が、やけに眩しくて、やけに格好良くて——それだけで、世界が救われた気がした。


 だから、冒険者に憧れた。


 剣を振り、魔術を操り、誰かを守る側になる。そうなれると、本気で信じていた。

 だが現実は残酷で、歳を重ねても都合よくスキルは覚醒しなかった。魔力適性も乏しく、努力では埋まらない“差”を、嫌というほど突きつけられた。


 それでも諦めきれず、せめて命を賭けて戦う冒険者たちを支える側に回ろうと、イツキはダンジョン攻略や魔物情報を扱う出版社に入った。誰かの命を救う“情報”を書くために。


 ——気付けば、家に帰れない日々が当たり前になっていた。


 みんなのためになるなら、と納得したような顔をしていても。

 それは半ば、自分に言い聞かせるような人生だった。


 だが、そんな人生は早くも終幕を迎えた——そう、思っていたのに。



 次に意識を取り戻した時、イツキは編集部の床に転がっていた。

 身体が重い。全身に鉛を流し込まれたようで、指一本動かすのも億劫だった。


 それでも呼吸はできる。息を吸い込み、心臓の鼓動を確かめる。

 内臓から骨の髄まで痛むが、今はいつもの寝起きの頭痛よりはマシに感じた。


「——生きて、る……? 俺、確かに刺されて……」


 掠れた声が、やけに現実味を帯びて耳に返る。


 酸素が行き渡り始めた脳が、寸前の記憶を引きずり上げた。

 ゴブリンに首元を刺され、死んだ——そこまで思い出して、イツキは焦るように首元へ手を回した。


 だが、指先に伝わるのは裂け目ではなく、繋がった皮膚の感触だった。

 内側から押し返されるような痛みはあるが、致命傷のそれではない。


「俺は倒れたけど……あいつとは、確か相打ちで……」


 そこで、横に倒れている“あいつ”が視界に入った。

 イツキの首を切った犯人——ゴブリンだ。


 ゴブリンは目を閉じたまま、動く様子はない。


「あれ……確か、魔物って……」


 ——おかしい。


 魔物は死ねば消滅する。それはダンジョンにおける常識のはずだ。

 ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。


 ——2:32。


 零時過ぎに戦い始めたとして、少なくとも二時間は倒れていた計算になる。


「俺は生きてる……こいつも消えてないってことは、生きてる、のか……」


 二時間もの間、イツキは魔物の横で仲良く眠っていたらしい。


 その瞬間、嫌な想像が背骨を這い上がった。

 先に目覚めたのがゴブリンだったら——。


「……いま、殺るしかないよな」


 だが、運良くもこの瞬間に動いているのはイツキの体だった。


 イツキは震える手で、ゴブリンの側に落ちていた短剣を拾い上げた。

 血で汚れ、刃も欠けている。それでも、武器になりそうなのはこれしかない。


 ——起きる前に、殺れ。

 そうしなければ、殺される。


 自分に言い聞かせ、心臓の位置を思い出す。

 何度も図で見て、文章にしてきた。だから、分かる。


 刃を突き立てた瞬間、確かな手応えがあった。

 そして次の刹那、ゴブリンの身体は霧のように崩れ、消えた。


 ——床に残ったのは、見たことのない黒色の核だった。


「魔石……? いや、魔物の中から出るなんて、聞いたことないぞ……」


 前例のないものは、研究対象になり得る。

 持ち帰れるなら是非そうしたい——無事にダンジョンを脱出できれば、だが。


 ペン先で軽く突き、危険性がないことを確認してから、その核をポケットにしまう。

 ついでに短剣も、刃を紙で包み、逆側のポケットへ押し込んだ。


 一息ついて、痙攣する腕を押さえる。

 見慣れた編集部の景色が、逆に生存の実感を強く呼び起こした。


「はぁ……」


 運が良かっただけなのか。

 生きていることへの安堵はあるが、状況は何一つ好転していない。


 イツキは近くのデスクチェアに腰を下ろし、大きく足を広げた。

 傍目にはだらしない体勢だが、イツキにとってこれが一番落ち着く。


 ブラック勤めの副産物だな、と内心で苦笑する。


「早く出ないと、ヤバいよな……」


 回転する椅子の上からフロア一帯に視線を走らせるが、荒らされた形跡は見当たらない。

 少なくとも、このフロアに他の魔物が侵入した様子はなかった。


「出たところで、ゴブリンより強い魔物に勝てるわけも——」


 そこで、思い出した。

 意識が途切れる直前に聞いた、あの声を。


《スキル:『再構築』の発現を確認》


「……待てよ。俺、能力者になったってことじゃないのか?」


 脳内に響いたスキル名だけでは、内容までは分からない。

 だが、こうして生きているのは、この未知のスキルのおかげである可能性が高い。


 首元の傷も、腹部の傷も、応急処置を受けたように“塞がっている”。


「……信じるしか、ないか」


 イツキは机の上に置かれていたカッターを手に取った。

 躊躇はなかった。刃を指先に当て、ほんの少し力を入れる。


 赤い線。

 遅れて、ちくりとした痛み。


 数秒待ってみるが、何も起きない。

 血が滲み始める。


「……治らないんじゃ——」


 そう思った瞬間だった。


 淡い光が走り、傷口が縫われるように元へ戻った。


 痛みは残る。傷跡も消えていない。

 だが、皮膚は確実に“元の形”に戻っている。


「治癒じゃない……」


 直した、というより。


「……戻した、か」


 再構築。

 その言葉が、ようやく意味を帯び始めた。


 対象は自分だけか。

 それとも——。


「他人も……魔物も……?」


 思考が加速する。

 徹夜続きの頭が、皮肉なほど冴えていた。


 編集者として、他人のスキルや能力を分析し、仮説を立ててきた。

 もっとこう使えるはずだ、とか。

 こういう応用ができるんじゃないか、とか。


 それはいつも机上の空論だった。

 だが、今は違う。


「……俺にも、守れる力があるかもしれない」


 覚悟は、ブラック会社に就職した時から決まっている。

 幼い頃から抱いてきた憧れも、正義感も、まだ死んでいない。


 視線がポケットへ向いた。


 取り出したのは、ゴブリンから生まれた黒い核。


 情報として存在しない“核”。

 それが《再構築》と無関係だとは思えなかった。


 イツキは核を足元に置く。

 思い浮かべるのは、ついさっきまでそこにあった姿。


「……戻れ」


 その瞬間、空気が歪んだ。


 核から淡い魔力の光が溢れ、霧のように広がる。

 それを起点に、形が組み上がっていった。


「……まじか」


 幻覚じゃない。

 魔力は、確実に“形”を作っている。


 やがて、一分ほどで。


 ゴブリンの身体が、そこに立っていた。


《ゴブリンの再構築に26%成功しました》


 脳内に、聞き覚えのある声。


 イツキは短剣を構えた。

 油断はできない。襲ってくる可能性は、ゼロじゃない。


「……来ないよな?」


 だが、ゴブリンは動かない。

 近づいて確認すると、心拍も呼吸も感じられなかった。


 ——生きてはいない。


 そう理解した瞬間、強烈な倦怠感が全身を襲った。


《睡眠時間を2時間使用——残り38時間》


「……これが、代償か」


 生まれ持った先天性スキルとは違い、後天性スキルには必ず代償が存在する。

 例えば、寿命や感情、五感、肉体——それらに比べれば、イツキのものはまだ現実的だった。


「睡眠時間、ね……」


 ブラック勤めの自分には、皮肉な対価ではあるが。


 とはいえ、代償の検証は後回しだ。

 今は、目の前の存在を確かめる。


 イツキは、再構築されたゴブリンを見据えて、静かに言った。


「——おすわり」


 ゴブリンは、座った。

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