勤めているブラック会社がダンジョンと化しました。 〜三徹不眠の末に得たスキル『再構築』で、俺は人生を作り替える〜

つきなみ。

プロローグ “無味”


 ——コーヒーの味が、分からなくなったのは何杯目からだろう。


 苦いのか、酸っぱいのか、それともただ熱いだけなのか。

 舌の上を通り過ぎる液体は、味覚として認識される前に喉の奥へ落ちていく。ただ“飲んだ”という事実だけが残るが、イツキにとっては案外これが心地よかった。


 軽くなったマグカップを見下ろした。

 白色の底が見えている。


 飲んだ感覚がなかったせいで、飲み切った感覚も薄れていた。



「……まぁ、眠気覚ましなんて、そんなもんか」


 誰に聞かせるでもなく独り言を吐く。

 このフロアに人はいない。返事が返ってこないことを、もう何時間も前から知っている。


 編集部のフロアは静まり返っていた。

 キーボードの乾いた音も、複合機の低いうなりもない。深夜零時を回ったオフィスは、照明だけが点いた無人の箱みたいで、やけに広く感じる。


 佐沼樹、二十三歳。

 高校卒業後、無能力であることを理由に冒険者の道を諦め、その代わりにダンジョン攻略情報を扱う出版会社に就職した。


 冒険者が命懸けで持ち帰った情報を整理し、噛み砕き、記事にする仕事。

 魔物の生態、弱点、危険度。現場に立つことはないが、「知識」だけなら嫌というほど頭に詰め込んできた。


 就職して一年もしないうちに、同期は全員辞めた。

 仕事は、すべてイツキに回ってきた。


「……頼まれたら断れないの、我ながらほんと損な役回りだよなー」


 呟きながら、イツキは立ち上がる。

 味のしないコーヒーでも、飲まなければ頭が落ちてしまう。


 歩く度にズキズキと痛む腰と尻をブラウン管テレビのように叩いて落ち着かせながら、編集部の奥にあるカフェスペースへと向かう。


 コーヒーマシンの前に立ち、マグカップをセット。

 ボタンに手を伸ばした——その瞬間だった。


 ――ドンッ。


 床の奥から、鈍い衝撃が突き上げてきた。


「……っ!?」


 次の瞬間、視界が大きく揺れる。

 棚が鳴り、机が軋み、マグカップが跳ねて床に落ちた。割れる音が、やけに耳に残る。


「地震……?」


 心臓が、遅れて暴れ出す。


 だが揺れは、すぐに止まった。

 あっけないほど唐突に。残ったのは、不自然な静寂だけだった。


「……残業中に独りで死ぬとか、さすがに笑えねぇよな、はは」


 冗談のつもりで呟いた声が、やけに乾いて聞こえた。


 数秒間の静寂の末に、イツキは違和感に気付いた。


「震度……今の揺れ、結構強かったよな?」



 この程度の揺れなら、速報の一つくらい来るはずだ。


 スマホの時刻を見る——0:08。


 日付は、もう変わっている。

 今日で残業三日目。いや正確には、四日目になる。


 不眠が続いた人間がどうなるかなんて、イツキは編集者として何度も原稿にしてきた。

 判断力の低下。幻覚。現実と虚構の境界が曖昧になる。


 そんなことを考え、ふと顔をあげる。

 イツキは窓の外が異様に暗いことに気付く。


 窓際に近付いて、息を呑む。


「……おいおい」


 そこにあるはずの夜景が、ない。

 車も、信号も、向かいのビルも、空も。


 あるのは、光を拒むような真っ黒な闇だけだった。


「はは、四日目に突入した瞬間からこんな幻覚見るのか」


 背中に、じっとりと汗が滲む。


 幻覚だ——不眠四日目から弊害が顕著に出始めるとネットでも書いてあった。

 だが、こんなにもはっきりと目に映るものなんだろうか、とイツキは苦笑する。


 これは不眠のせいだ——うん、寝よう。


 硬く冷えた床でもいい。横になれば、きっと意識はすぐに落ちる。


 そう考えて振り返った瞬間。


 ――ズ……ズリ……。


 何かを引きずる音が、廊下の奥から聞こえた。


 無意識に喉が鳴る。


「……誰か、いるのか?」


 返事はない。


 代わりに、影が見えた。

 人間の子供くらいの背丈。ゆらゆらと揺れながら、こちらに近付いてくる。


 深夜のオフィスに、子供がいるわけがない。


 影が光を拾った、その瞬間。


 緑色の肌。歪んだ顔。

 手には、粗悪な刃物。


「……っ、ゴブリン、かよ!?」


 イツキはその存在を知っている。嫌というほどに。

 最低ランクの難易度に分類される初級魔物。冒険者相手なら、脅威ですらない存在。


 ——もちろん、いまの自分が相手なら話は別だ。


 三日眠っていない丸腰の一般人。


 心臓が壊れそうなほどに鳴り響く。


 逃げろ。隠れろ。


 理性が叫び、身体が本能で動いた。

 デスクの下に滑り込み、息を殺す。


 足音が近付く。

 通り過ぎると思ったが、イツキの前でゴブリンは足を止めた。


 不揃いな程に大きな鼻を鳴らす。

 匂いを嗅いでいるらしい。


 ——ゴブリンは臭いで仲間や獲物を探す。



 そんな文言を数年前に自分の手で書いた記憶があった。

 今は気付かれていない。だが、それは完全に時間の問題だ。


 逃げ場はない。

 周囲に見えるのは、椅子と書類が入った棚のみ。


 五年間、文句を言いながらも居続けた場所。

 安全な場所から、危険を語り続けてきた場所。


 このまま見つかって、何もできずに殺される。


 ——それって、今までと何が違う?


 全身から汗が噴き出す感覚に悪寒が走る。


 怖い。正直、死ぬほど怖い。

 それでも、ここで何もしなければ、一生、自分を許せない気がした。


 この会社内に、自分以外にもゴブリンから……いや、それ以上の魔物から逃げ隠れている人もいるかもしれない。

 そんな嫌なことを考え、再び武器になりそうなものを視線で探した。


 やがて視線は床に転がる延長コードを見つけた。



「……普通なら逃げるんだろうけどさ」



 小さく、独り言を漏らす。


「……三日寝てない人間に“普通”なんて求めんなよ」


 武器にならない。分かっている。

 それでも、今の自分に残っているのは、それだけだった。


 息を殺し、椅子ひとつ挟んだ先にいるゴブリンの背中を睨みつける。

 そして椅子の隙間から体躯に見合った細い首に狙いを定めて。


 イツキはデスクから駆け出した。

 椅子と机の隙間を抜け、延長コードをゴブリンの首元へと叩き込む。


「――っ!」


 絡める。

 一度、二度。

 そして喉元に食い込ませるように、力いっぱい引き絞った。


 ゴブリンは即座に暴れ出した。

 短い腕を振り回し、握っていた粗悪なナイフを無差別に突き立ててくる。


「……っ、ぐ!」


 腹部に衝撃。

 次いで肩。

 熱を帯びた痛みが走り、遅れて何かが裂ける感触が伝わってきた。


 ——深い。


 直感で分かる。

 下手をすれば内臓まで届く。


 だが、イツキはコードを離さなかった。


(……離したら、終わりだ)


 腕が震え、視界が狭まっていくのを感じる。

 目に映る景色が点滅し、二日酔いのような倦怠感がイツキに身体の限界を伝えようとする。


 だが、それでもイツキは歯を食いしばり、全体重を預けるように後ろへ倒れ込む。


「……ッ、グ、ァ……!」


 ゴブリンの動きが、次第に鈍くなっていく。

 ナイフが床に落ち、甲高い音を立てた。


 それでもイツキは離さない。


 数秒後。

 ようやく、ゴブリンの身体から完全に抵抗が消えたことを確認し、延長コードを手放した。


「はぁ、はぁ……」


 手のひらには線の形に赤い跡が残っている。

 視界の左隅に仰向けで倒れるゴブリンは微動だにしない。


 イツキは思わず簡単の声を漏らした。


「……なんとか、なった」


 勝った。

 そう思った瞬間、全身から力が抜け、イツキは膝の裏を蹴られたような衝撃と共に倒れ込んだ。



「……?」


 視界がやけに霞む。焦点が合わない。耳鳴りが頭蓋の内側を叩き、鼓動が遠ざかっていく。まるで心臓が、胸の奥で他人事みたいに働いている。


 ふと、足元を見た。


 イツキの周囲にあるタイルカーペットは、本来の灰色からかけ離れた赤黒い色へと変色していた。


 点じゃない。線でもない。水溜まりのようになっている。自分の体のどこかが、蛇口みたいに開きっぱなしなんだと、視界より先に理解が追いつく。


「……あ……」


 そして遅れて、理解した。


 腹部。肩。皮膚の下で何かが冷え、裂け、ひりつき、そこに遅刻してきた熱が追い打ちをかける。アドレナリンの帳が剥がれ落ちていくみたいに、身体が現実を突きつけてくる。


 ――深い。


 さっき自分でそう判断したはずの言葉が、今になって臓腑から響いてくる。息を吸うたび胸の奥が軋み、喉の奥が鉄臭い。唾を飲むだけで、胃が持ち上がる。


 この失血量は、明らかに致命傷とも言える。



「……ま、じかよ……」


 一歩、踏み出そうとして失敗し、そのまま崩れ落ちた。

 床が、やけに冷たい。


 呼吸が浅い。

 息を吸うたび、胸の奥が軋む。


 冷たいのに、背中は熱い。汗か血かも分からない湿り気が首筋を伝って、ただでさえ痺れている思考をさらに鈍らせる。手のひらを握ろうとしても、指先が言うことを聞かない。



 ——倒した。倒したはずなのに。


 イツキはゴブリンの隣に倒れ込んだ。

 確かに、勝った。


 それなのに。


 視界の端が、黒く滲む。四隅から、ゆっくりと世界が食われていく。編集部の白い照明が遠い。天井の蛍光灯が、点滅する星みたいにぼやける。


 ——終わった。


 そう思った瞬間、痛みが“ほどけた”。


 その時だった。

 薄れる意識の奥で、その声だけが異物のように残る。


《スキル:『再構築』の発現を確認——25%の適合に成功しました》


 ——なんだ、それ……。


 声は出なかった。舌が重い。喉が固い。呼びかける相手もいない。それでも、心の中でだけ、笑ってみせる。笑ってみせないと、このまま何かを“後悔”しそうな気がした。



 ——俺は、死ぬのか……。



 頭に浮かんだのは、最後に飲んだ味のしないコーヒーだった。

 その次に浮かんだのは家族でも友人でも初恋の人でもなく——半年前に死んだハムスターの”ポポ太”だった。掌に収まるほど小さくて、妙にあったかくて、やたらと生意気だった。

 思えば、ポポ太のおかげであのとき仕事を頑張れていたような気もする。



 そして、その次にようやく思い出した。


 ――明日の締切。


 俺が倒れたら、誰が拾う? 誰が整える? 誰が頭を下げる?

 笑える。最後まで仕事の心配かよ、と。未練があるのは人生じゃなくて、未完の原稿の方なんて、救いようがない。


 どれだけ待っても助けは来ない。もちろん救急車だって来ない。呼ぼうにも圏外だし、そもそも“外”との繋がりが存在しているのかも怪しい。



 ゆっくりと。

 冷たい床の感触が薄れていく。背中の熱も、首筋の湿り気も、腹の痛みも、順番に遠ざかる。

 最後に残ったのは、喉の奥にこびりついた鉄臭さと――倒したはずのゴブリンの、動かない影だった。


 閉ざされたこのダンジョンで、イツキの意識は――音もなく、完全に途切れた。

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