第3話


「それじゃあまずはマストの上り方から教えよう。展帆作業を行うには、マストに交差している二つのヤードに向かう必要がある。注意点は二つ。なるべく素足で上ることと、ここにぶら下がっている命綱をすること。つけ方はこうだ。よく見ていてほしい」


 大西洋を渡り始めた船の上。船内を軽く案内した後で、エドは二人の新人に早速船の基礎知識を教えていた。本当は教育係にギードを任命していたが、自分達と交代で休憩を取りに行ったため、とりあえずはエドが教育係を務めている。


「縄梯子を上る際は、足元もだが風向きに気を付けてほしい。風を身体の前ではなく背中で受けるようにするんだ。そうすると風に煽られにくくなる」


 エドは一度手本を見せてから、二人にも実際にマストにかかった縄梯子を上ってもらった。慣れない動作で地道に上ってくるクーロとララ。甲板からだんだんと遠ざかっていく恐怖からか、ララの身体は小刻みに震えている。

 しかし、二人とも要領を得るのは早いようだ。クーロの方は大きくララを追い抜いて、圧倒的な高さに怯むことなく上り進めている。


「筋がいいな」

「いいえ」

「少し安心したよ。クーロにはギードのような本格的な船仕事を任せようと思っていたから」


 正直、エドは少し不安だった。二人とも年齢の割に身体が細くて小さい。最初は伸び切った服のせいかと思ったが、袖から覗く腕はやはり骨ばっていて弱々しかった。


「義母に育てられたと言っていたが、食事はとれていたのか?」


 ララを一瞥してからクーロが答える。


「はい。ただ、裕福な家ではなかったし、僕たちも小食なので……」

「そうか……これからは、なるべく無理のない範囲で栄養をとってほしいんだ。どの仕事にも言えるが、船仕事は特に体力が必要になるからな」


 ララが追い付くのを待って、今度は一番上のヤードを目指していく。

 ヤードは大きな帆をつないだ大切な場所だ。帆に風を受けてもらいやすくするため、ヤードの下には余計なものは何もない。あるのはヤードの先端へと繋ぐ足代わりの太いロープだけで、しかも一本だけだ。


「ここは縄梯子と違って足元が不安定だから注意が必要だ。落下しても掴むものがないから、慎重に渡ってほしい」


 ヤードを手すり代わりにロープを渡って見せた後で、エドは二人についてくるよう合図をした。そうっと足を伸ばし、ヤードの真下でたるんだその足場へクーロはゆっくりと着地する。そこから三、四歩歩き、険しかったクーロの顔に安堵が浮かんだ。ララはまだ不安なのか、片足すらもヤードのロープにつけずにいる。


「ここはもう少し慣れてからでも構わない。また一日目だ。ゆっくり慣らしていこう」


 エドはクーロを連れて、ヤードの先端まで進んでいった。ヤードの根元で待機していたララは、だんだんと景色に同化していく二人を呆然と眺めていた。

 その奥には青い海。辺りをぐるりと一望しても大地の影は微塵も見えない大海原だ。白くて細い波が、船の後ろで少しずつ半円を広げながら水平線へと溶けていく。


「私たちしかいないみたい……」


 クーロと二人、マストへと引き返していきながら、エドはそんなララの呟きを聞いた。


「怖いか?」

「ちょっとだけ……。エド船長は、小さいときからこんな景色を見てたんですか?」

「いや。船での生活を始めたのは十五のときだ。船自体には何度か乗ったことはあったが、船乗りになるまでにはいたらなかったよ」

「でも、今は船長なんですね」

「ああ。十五でようやく船乗りになって、少し前に小さい頃の約束だったこの船を譲り受けたんだ」

「『譲り受けた』……?」

「ああ。この船は私の亡き祖父の船なんだ。そしてこの船で海を渡ることは、私と祖父の夢の一部だ」


 クーロも縄梯子に戻ったヤードの上で、エドは甲板を見下ろした。今でこそこのグアパエスポス号は正式にエドの船となったが、そこに至るまでの道のりは短いようで長かった。

 十五歳の決意。二つの商船での下積み生活……。グアパエスポス号との十年ぶりの再会と、エスキベル商会の開設、その初仕事……。

 その間にも、様々なことがあった。海なんて恐ろしいと泣き崩れる母への説得、船乗り仲間たちとのいざこざ、祖父のかつての友人たちとの出港準備、商船登録……。


 そして二十一歳で晴れてグアパエスポス号の船長となり、自らの意志で船を動かした。亡き祖父の不安はまず解消されたと思う。


「おじいさんからもらった船……すごいんですね」

「ああ。すごいことだったみたいだ。けどあまり自覚はなかったから、うっかり口を滑らせて失敗した。『未来の船長様』と、かつての仲間にからかわれたんだ。祖父も会うたび『お前に譲る船だ』と言ってきかなかったから」


 そう言って苦笑するエドに、クーロが真面目に尋ねる。


「これから向かうジェーン王国に知り合いはいるんですか? 例えば鍛冶職人とか、それに関係する人とか」

「特にはいないよ。この船は二度目でも、私達もジェーンに行くのは初めてなんだ」


 と、エドが縄梯子に飛び移る。


「これまではずっと、資金集めと借金返済を兼ねて地中海を中心に商売の経験を積んでいたんだ。やっとジェーンに行く準備が整ったのは、つい一か月前。……ところで、なぜ鍛冶職人なんだ?」


 クーロが答えようと口を開いたときだった。突然、わっ! と悲鳴を上げてクーロが縄梯子を滑り落ちた。

 エドとララが慌てて下を覗き込む。すると、がははっ! と男の豪快な笑い声が聞こえてきた。


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