深夜2時の飯テロタイム――お湯を注いで、何も解決しない三分間

五平

第1話:標準の免罪符(カップヌードル)

 二十三時を過ぎたあたりで、今日という一日の「勝ち」はなくなった。そして午前二時、私はようやく、今日が完全な「負け」であったことを認める。


 玄関に脱ぎ捨てたパンプスの角度も、結局返せなかったメールの件数も、すべてが正解から遠ざかってしまった。こういう夜、冷蔵庫を開けてはいけない。そこにあるのは、丁寧な暮らしの残骸か、あるいは自分を律するための賞味期限切れのサラダだけだ。


 私が手を伸ばしたのは、吊り戸棚の隅に鎮座していた、あまりに記号的な赤いパッケージ。

 日清カップヌードル。

 この国で最も有名な、この「標準」こそが、今の私には唯一の免罪符だった。


 ケトルのスイッチを押す。ゴオオ、という低い唸りが静まり返ったキッチンに響く。この音が、今日一日のノイズを塗りつぶしてくれるような気がして、少しだけ救われる。


 蓋を半分まで剥がす。乾燥した謎肉、エビ、卵。それらが秩序正しく並んでいるのを見て、ふっと息を吐いた。ここには、私の意思など介在しない完成された世界がある。

 お湯を注ぐ。立ち上がる湯気は、どこまでも無機質で、それでいてひどく暴力的なまでに「食べ物」の匂いがした。


 三分。

 スマホのタイマーはセットしない。なんとなくの感覚で待つ。

 この三分間、私は「何者」でもなくなる。誰かの部下でも、誰かの友人でも、期待に応えられない役立たずでもない。ただ、お湯が麺に浸透するのを待つだけの、一つの有機体。


 窓の外、遠くを走る車の音が聞こえる。あの車に乗っている誰かも、何かを諦めてどこかへ向かっているのだろうか。それとも、まだ戦っているのだろうか。

 どうでもいい。

 今は、この蓋の隙間から漏れ出す、チキンと醤油の混ざり合った安っぽい香りが、私の世界のすべてだ。


 三分経ったかどうかも怪しいところで、私は蓋を剥がした。

 少し芯の残った、縮れた麺。それを割り箸で手荒にかき混ぜる。

 

 一口啜る。

 喉を通る熱が、冷え切った自尊心を無理やり温めていく。

 美味しい、とは少し違う。これは「納得」だ。この味を知っている。この味は、私を裏切らない。私がどんなに無様な一日を過ごしても、このカップの底にある塩分と油分は、変わらずにそこにある。


「……はぁ」


 結局、何も解決していない。明日、あの気まずいメールの返信はしなきゃいけないし、パンプスは磨かなければいけない。

 けれど、最後の一口、あの塩辛いスープを飲み干した瞬間にだけ、少しだけ「明日も生きていていい」という許可証をもらったような気分になる。


 シンクに空の容器を置く。

 少しだけ重くなった胃を抱えて、私は電気を消した。

 

 明日の私が、今日の私を許せますように。

 そんな祈りは、残り香と一緒に、換気扇の向こうへと消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月14日 02:00
2026年1月15日 02:00
2026年1月16日 02:00

深夜2時の飯テロタイム――お湯を注いで、何も解決しない三分間 五平 @FiveFlat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ