霊障保険、入ります?―怪異損害査定員の業務日誌―

岡田らた

File1:多摩、首吊りアパートの怪(上)

「いらっしゃいませ。保険のご相談ですね? こちらへどうぞ」


 立川駅北口。多摩モノレールの高架が巨大な背骨のように街を貫き、再開発で整えられたペデストリアンデッキを、無機質な群衆が行き交っている。駅から少し歩けば、百貨店の鮮やかなネオンの影に隠れるようにして、昭和の残滓を湛えた雑居ビルが顔を出す。その三階。窓ガラスに「日本霊障損害保険 立川支社」と、やる気のないフォントで書かれた事務所が私の職場だ。


 新卒で就活に失敗しまくった私を最後に拾ってくれたのは、怪異損害査定員という聞いたこともない職業だった。勿論やりたい仕事だったわけではない。かと言ってやりたい仕事があったわけでもなく、要するに長期正社員雇用の恩恵にあやかりたかっただけだ。


 縁なんて信じてないが、これも何かの縁。そう言い聞かせて、私は営業用の笑顔を貼り付け、カウンターの向こうのお客様を出迎える。


「……あの、多摩川沿いのアパートに引越したんです。そこが事故物件かもしれなくて。最初は安さに惹かれたんですけど……もう、限界なんです」


 目の前の客――佐藤健二は、組んだ指を白くなるほど締め上げ、声を震わせた。


「夜、寝ようとすると天井から……ギギ、ギチッ、て。重い荷物を吊るしたロープが、木の梁に擦れるような音がするんです。それだけじゃない」


 佐藤は自分の首をさすりながら、怯えた目で虚空を見つめる。


「朝起きると、枕元に……濡れた髪の毛が落ちてるんです。それも、僕のじゃない、腰までありそうな長い、腐った泥みたいな匂いのする髪が。……昨夜なんて、寝返りを打ったら、耳元で『……まだ、足りない』って、女の声が聞こえて。暗闇の中に、首のない、でも喉の断面から直接笑い声が漏れてるような『何か』が、天井から僕を覗き込んでたんです。比叡さん、僕、もう死ぬんじゃないかって……!」


「なるほど。聴覚、嗅覚、および視覚的干渉、ですね」


 私は同情の欠片もない手つきで、タブレットに『事象:重度の霊的接触』と入力した。佐藤の語るおぞましい体験は、私にとっては「チェック項目」の一つに過ぎない。


「その『彼女』、縄を持ってませんでしたか? それも、使い古されてどす黒く変色した、太い麻縄を」


「な、なんで……見てきたみたいに……!」


「そういう『型』の怪異ですから。……さて、お話は分かりました。では、プランの選択に移りましょう」


 私は流れるような手つきで、画面をスワイプした。


「お客様、失礼ですが現在の年収を伺っても? ……ああ、失礼。去年の源泉徴収、もしくは直近三ヶ月の給与明細はございますか? 無職……左様でございますか。では預貯金の額を。……なるほど、その額ですと」


 私は憐れみすら含まない事務的な手つきで、上位プランを画面から消し去った。


「一番人気は、除霊から転居費用まで全てをカバーする『一種:現世安穏(げんせあんのん)』ですが、お客様の現在の経済状況ですと、月々の掛金の支払いが滞るリスクが高いと判断されます。……現実的なのは、こちらですね」


 私は画面上の項目を強調した。赤い文字で『死亡給付金』の文字が浮かび上がる。


「『三種:終焉給付(しゅうえんきゅうふ)』。通称、”香典”です。月々のご負担は三千円。ただし、補償対象は『怪異を直接の原因とした死亡、または再起不能な身体欠損のみ。……つまり佐藤さん、あなたがその『天井の闇に潜む何か』に呪い殺された時だけ、指定の口座に一千万円が振り込まれる。そんな契約です」


「……じゃあ、もし俺が死ななかったら? 呪われて、病気になったり、精神的に参っちゃったりしたら……」


「一円も出ません。除霊もいたしません。それは『霊障』ではなく、お客様自身の『体調管理不足』または『心因性の疾患』として処理されます。弊社は慈善事業ではなく、あくまで損害を査定する組織ですので」


「そんな……。でも、入らないよりは、マシですよね。これ、お願いします。……入ります」


「ええ、死に甲斐があるというものです。では、本契約の前にまずは物件の『現況査定』を行います。すでに何かに憑かれている場合は、この契約は無効――つまり瑕疵として受理されませんので」


「えっ……?」


「火がついてから火災保険に入れないのと同様、既に事故が起きている物件への加入は、原則としてお断りしております。そこで『何も出なければ』晴れてお客様は、安心して死ねる権利を手にするわけです。今から多摩の現場へ伺います」


 私は、呆然とする佐藤を促し、事務所を出た。  賑やかな北口の喧騒を背に、駅のコンコースを通り抜けて南口へ。多摩モノレールの高架がそびえるデッキから、私たちは階段を降りて地上へと向かう。再開発が進んだ機能的な駅周辺を離れるにつれ、緩やかな下り坂が多摩川の方角へと続いていく。


 十五分ほど歩けば、街の喧騒は嘘のように遠のく。整備されたアスファルトが途切れ、湿った土と古いアスファルトの匂いが混じり始めるあたりに、そのアパートはあった。立川の整然とした街並みの輝きから、完全に見落とされたような場所。錆びた鉄階段を上り、今回の現場「河見荘」の二〇三号室の扉を開ける。


 佐藤の話では「出る」とのことだったが、部屋に入った瞬間、私の鼻を突いたのは腐敗臭ではなく、安っぽい新築のようなペンキの匂いだった。


 私はビジネスバッグから、電圧計に似た「霊素検知器」を取り出し、部屋の隅々までセンサーを向けた。天井の隅、畳の合わせ目、湿った壁の隙間。


「……数値、正常ですね。環境ノイズ以外、目立った反応はありません」


「えっ……? でも、昨夜はあんなに……」


 佐藤が信じられないといった顔をする。だが、そこには彼が語った「髪の毛」も「声」もない。ただ、最近塗り直されたばかりの、妙に白々しい壁が広がっているだけだった。


「佐藤さん、ここは本当に事故物件なのですか?」


「……いえ。不動産屋からは何も。ただ、あまりに家賃が安いし、天井からあの音がするから、てっきり何かあるんだと思って……」


 佐藤はそう言いながら、喉を詰まらせたように、不自然に一度激しく咳き込んだ。その際、彼の口元からわずかに、古い紙が焼けたような、苦い匂いが漂った。


「なるほど。では現時点での汚染は『無し』。契約に支障はありません。もしここで高い数値が出ていれば、その場で門前払いするところでした」


 私はタブレットを取り出し、契約締結の最終確認画面を表示した。規定の検知器が反応しない以上、私は「怪異は存在しない」として処理しなければならない。それがルールだ。


「おめでとうございます、佐藤さん。事前汚染が認められなかったため、弊社は『清浄』とみなします。たった今、無事に『三種:終焉給付』への加入が承認されました。これで今後、万が一この部屋で霊障事故が発生し、あなたが亡くなったとしても、ご家族には一千万円が支払われます。……ここに、ご署名を」


「あ……ああ、よかった。これで、やっと眠れる……」


 佐藤は、救い主に出会ったような顔で、震える指を画面に押し当てた。私は、佐藤の安堵をよそに、不自然に平滑な壁の表面を冷ややかに見つめていた。数値が出ない以上、彼を「優良顧客」として受理し、三千円の掛金をもぎ取るしかない。


「では、契約成立です。第一回分の保険料、忘れずに振り込んでくださいね。……『事故』が起きましたら、速やかに弊社コールセンターへご連絡を」


 私は、悪霊が息を潜めているかもしれない部屋に佐藤を一人残して、足早に現場を後にした。

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2026年1月13日 21:00
2026年1月14日 21:00

霊障保険、入ります?―怪異損害査定員の業務日誌― 岡田らた @Evrika___

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