4.再び

再び目が覚めて、最初に気づいたのは空気の匂いだった。

春よりも重く、夏ほど騒がしくない。

制服の袖はもう長く、吐く息は白くならない。


——時間が、進んでいる。

いや、過去であることは確かなのだが、陽菜と会話したあの日から季節がだいぶ過ぎているようだった。


校舎の裏から聞こえてくる乾いた音で、それを確信した。


テニスコート。


ラケットを握った瞬間、手が一拍遅れて動く。

振ろうとして、間に合わない。

身体がどうこうじゃない。

感覚が、まるで噛み合っていなかった。


「浅井、今の何だよ」


「フォーム忘れた?」


必死に合わせようとするほど、ズレる。

足は動くのに、判断が遅れる。

頭の中だけ、別の時間にいるみたいだった。


「……いや、きついな」


ぽろっと、言葉が漏れた。


「二十年ぶりか……さすがに感覚戻らん」


一瞬の静寂。


次の瞬間、爆発したみたいに笑いが起きる。


「は?」


「二十年?」


「お前いくつだよ!」


「引退したプロ気分か」


涼一は遅れて、ああしまったと思う。

けれど、今さら取り繕う気力もなくて、


「はは……まぁ、そんな感じだな」


自分でもよくわからないまま、笑って流した。


ラリーが再開される。

誰も気にしていない。

冗談として消費されて、終わるはずだった。


——はずなのに。


ふと、視線を感じた。


コート脇。


ボール拾いをしていた陽菜が、こちらを見ていた。


軽い表情じゃない。

驚きとも、警戒ともつかない、妙に静かな目。


視線が合った。


一拍。


涼一が何か言う前に、陽菜はすっと目を逸らす。

何事もなかったように、転がってきたボールを拾い上げる。


それだけ。


なのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。


——気づいたか。

——それとも、気のせいか。


陽菜は何も言わない。

近づいてもこない。


ボールがまた飛んでくる。


涼一は一歩遅れて、ラケットを振った。


——やっぱり、二十年のブランクはきついな。



部活が終わって、校門を出る。

夕方の空はもう冷えていて、昼間の名残だけが薄く残っていた。


数歩前を歩く陽菜。

距離は、相変わらずだ。


近すぎず、遠すぎず。

話しかけようと思えばできるけど、しなくても不自然じゃない距離。


同じバス停。

同じ時刻。

同じ帰り道。


——変わらない。


はずだった。


バスを降りる。

順番も、いつもとほとんど同じ。


陽菜が先。

少し遅れて、俺。


街灯がぽつぽつと灯り始めていて、昼と夜の境目みたいな空気だった。

神社へ続く道に入ると、人通りは一気に減る。


雪はない。

でも、あの夜を思い出させるくらい、静かだった。


陽菜が、ふっと歩く速度を落とす。


ほんの少し。

意識しなければ気づかない程度。


距離が、自然に縮まる。


「……ねえ」


前を向いたまま、陽菜が言う。


心臓が、わずかに跳ねる。


「今日さ」


間を置く。

探るみたいな、間。


「ひょっとして——」


そこで、ちらっとだけ振り返る。

目が合うほどじゃない、横目。


「おじさんの方?」


一瞬、意味を測りかねる。


冗談みたいな言い方。


涼一は、すぐに答えられなかった。


否定するのは簡単だった。

でも、そのどれもが、妙に嘘くさく感じてしまう。


「……なんで、そう思った」


問い返すと、陽菜は肩をすくめる。


「なんとなく」


あっさりした言い方。

けれど、足は止めない。


「今日のテニスとか」

「あと……雰囲気?」


今度はちゃんと、こちらを見る。


昼間コート脇で見せた、あの目。

驚きとも警戒ともつかない、静かな視線。


「なんか落ち着いてる感じ?」


涼一は、息を整える。


夜風が、制服の隙間を抜ける。


「……もしそうだったら?」


自分でも驚くくらい、落ち着いた声が出た。


陽菜は、少しだけ考える。


本当に、少しだけ。


それから、ふっと笑った。

「その返し、やっぱ、そうだ」


軽く。

でも、突き放す感じでもなく。

「いつもの浅井だったら、目も合わせてくれないはずだし」


まるであの頃の心を見透かされていたような言動に、ぎくりとする。


また前を向いて、歩き出す。

距離は、さっきより少しだけ近い。


追いかけたわけでも、

追いついたわけでもない。


ただ、同じ速度になった。


神社の鳥居を過ぎたあたりで、陽菜が足を止めた。


「ねえ」


今度は、ちゃんとこっちを見る。


「ひとつ聞いていい?」


「……?」


「なんでさ」


言葉を選ぶみたいに、少しだけ視線が泳ぐ。


「もし本当に“おじさんの浅井”だったとして」

「なんで、私なの?」


「え?」

胸の奥が、静かに締まる。


「あの時なんで真っ先に私に未来のこと教えてくれたのかなって」


「ほら、私なんかほっといて、もっと他にやろうと思うこといっぱいあると思うんだけど」


しばらく、言葉が出てこなかった。


確かに、その通りだった。


もし本当に、当時の自分と意識が入れ替わっているのだとしたら。

やれること、考えるられることは、他にいくらでも思いつく。


それなのに。

どうして、真っ先に浮かんだのが陽菜だったのか。


神社の境内を抜ける風の音を聞きながら、胸の奥でその問いを転がす。


——なんでだ。

そう自問しながらも、答えはなんとなく分かっていた。


「……多分」


涼一は視線を前に向けたまま、言う。


「初恋だったからだと思う」


陽菜が、ぴくりと動く気配がした。


「その人の未来をさ」

「なんとかできたらなって、ずっと思ってたのかもしれない」


声の調子は、驚くほど淡々としていた。

思いついたままを、そのまま口にしただけ、という感じで。


一拍。


二拍。


「……は?」


陽菜の声が、裏返る。


「ちょ、ちょっと待って」


足が止まる。


「今のって、いつの話?」

「初恋って、いつ?」

「……ていうか、それ私のこと?」


問いが一気に重なる。


「え、なに?」

「それって好き“だった”ってこと?」

「未来のおじさん視点?」


完全に処理が追いついていない顔だった。


涼一は、思わず小さく息を吐く。


「あー……」

涼一は困ったように頭をかく。


「いや……俺も、そこまで整理できてないけど、告白とかそういうんじゃなくて」

「気にしないでくれ」


「はぁ!?」



陽菜は言葉を失ったまま、数秒固まる。

「……気にするでしょ普通」


呟くように言って、視線を逸らす。

夕方の空気だけが、二人の間を流れ、しばらく沈黙が続いた。


そのまま、いつもの分かれ道。

お互い何も言わずに別々の方向へと別れた。

その先の会話がどの選択肢をとっても正しい答えにならない。

そう思ったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る