第3話 そんなに笑わなくっても

チントンシャン、バックミュージックは宮城道夫の『春の海』。

 

 藤城課長に連れられ、やって来たのは隠れ家的な高級小料理店だった。

 店構えからして、「ちょっと飲む」には明らかに過ぎているような店。課長は常連のようで、「いつもの」と女将さんに片手を挙げると、案内もなしに奥の部屋へと進んでゆく。


 その後ろに続きながら、私は後の支払いのことばかりを気にしていた。


 まさかここ……割り勘じゃないよね?

 喉がひくりと鳴った。だって今の私には、それこそが命取りだ。

 

 個室に上がると、紫檀の和テーブルを挟んで、藤城課長と向かい合った。

 しかし、その後すぐにやって来た美人の女将さんに飲み物を聞かれ、まさか『オレンジジュースで』とは言えず、「同じもので」と言ったのを最後に長い沈黙が続いている。


「……」

「……」

 うへえ、気まずい。


 ようやくお銚子とお料理が運ばれてくると、課長は女将にそっと耳打ちして、襖の戸を閉めさせた。いたたまれない雰囲気の中、課長は手酌で冷酒を注ぎ、ついでに私の盃にも注いだ。


 そうして、無駄の嫌いな藤城課長らしく単刀直入に訊ねてきた。


「で? 半人前にもならないヒヨコ以下のタマゴ社員が、生意気にも退職なんて言い出した理由は一体なんだ」

 あ〜、苦手なんだよね。

 課長のこの、私を見る時の眼つき。まるでゴミ虫でも見るのような冷たい視線には、一遍の情さえ感じられない。

 

 それだけでもう、すっかり喉が貼りついた。盃を持つ指先だけが妙に冷たい。

 私が黙りこくっていた時間はさほど長くなかったはずだが、課長はすぐに痺れを切らした。

 

「おい、何とか言ったらどうなんだ。この俺が、貴重な時間を割いてやってるって言うのに。いいか? これ以上無駄な時間は……お、おい。待て、それは」


 盃を持つ手が、かすかに震えた。


 ともかく喉に潤いを!


 追い詰められた私は、盃になみなみと注がれた液体を、一気にグイッと飲み干した。

「おい四葉、いきなり一気飲みはやめておけ。お前酒は……」

 

「……うぃ~~」

 ずいっと腕で口を拭うと同時に、景色が歪み、グルグル目が回り出した。


「お、おい、大丈夫か」

「やだなあ……大丈夫なわけないじゃないですかあ~。かちょ……う、うう。う、うわあん、か、課長おぉっ」

「よ、四葉!?」


 数十分後。


 酒の勢いとは恐ろしい。気がつけば、私は彼の胸に泣きついて、全てを話してしまっていた。

 すると、あろうことか、藤城課長はブッと噴き出したのだ。

 

「笑い事じゃないですよぅ……ヒクッ」

「いや悪い。だって今日び、時代劇じゃあるまいし。 夜逃げした親父の借金の連帯保証人にされた、だなんて。……クスッ、しかもこんなに身近によ」


 課長はフッと乾いた笑いをみせると、すぐに真顔をつくった。

「で? お前、会社を辞めて借金返すアテはあるのかよ。この後、どうするつもりだ」

 

 私は半ばヤケクソに、プリクラを貼りつけた、ピンク色の名刺を差し出した。


「まあ……お定まりの、こういう仕事、です。ハイ」

「……」

 くそ。そのドン引きした真顔、本当に止めてほしい。


「まあ別に、お前の人生にどうこう言うつもりはないけど。女ってのは、そういうのに慣れるのが早いんだな」


 自分の杯に口を付けながら、さも他人事とばかりに感想を並べる藤城課長。


「そ、んな」

 彼の言葉に、あっけらかんと誤魔化した悲しみが蘇った。


 冗談のつもりで貼りつけた笑顔が、内側から、はらはらと剥がれていった。



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