第38話 亡命者クロカワと、硝煙の匂い

『ゼロ・ベース』の社長室。  俺は、日本にいる紗彩からの電話を受け、受話器を握りしめたまま凍りついていた。


『……ええ、間違いないわ。黒川がGPSアンクレットを切断して逃亡したの。警察があなたの実家の蔵周辺で、奴の靴跡を発見したわ』 「蔵の中には?」 『誰もいない。……つまり、そういうことよ』


 背筋に冷たいものが走った。  黒川が、ゲートをくぐった。  奴は俺の後をつけていたのか、それとも偶然か。いずれにせよ、あの卑劣な男がこのアークレイアに来てしまった。


「……まずいな。奴は俺が『何をしているか』を知っている」


 俺は電話を切ると、すぐにヴォルグを呼び出した。


「ヴォルグ、領内の警備レベルを最大に引き上げろ! 不審者は即座に拘束だ。……特に、薄汚れたスーツを着た中年男には気をつけろ」 「了解だ、社長。……知り合いか?」 「ああ。俺が知る限り、最も性根の腐った『敵』だ」


 だが、俺の対応は一足遅かった。  黒川は、俺たちの拠点には現れなかったのだ。  奴は俺に見つかることを恐れ、ゲートを出てすぐに北東の森へと逃走し――そして、運悪く(あるいは運良く)、国境を偵察していた隣国の斥候部隊と接触していたのだ。


 ***


 軍事国家ガレリア帝国。  その前線基地の地下牢。  薄暗い松明の明かりの下、ボロボロのスーツを着た黒川剛は、椅子に縛り付けられていた。


 目の前には、先日『花火』で敗走した鉄血将軍・ガンダルが、殺気を放って立っている。


「……貴様、何者だ? アークレイアの民ではないな。その奇妙な服、そして我々の言葉を解する魔道具……怪しいにも程がある」


 黒川は首から下げたペンダント(俺が蔵に予備として置いていた『翻訳の魔石』だ。盗まれた!)を握りしめ、歪んだ笑みを浮かべた。


「ヒヒッ……。怪しい者じゃないですよ、将軍閣下。私は、あなた方の味方だ」 「味方だと?」 「ええ。先日、あなた方が敗れた『空からの爆撃』……あれの正体を知りたくはありませんか?」


 ガンダルの眉がピクリと動いた。


「あれはアークレイアの大魔導師の仕業だろう」 「違いますよ。あれは『花火』……ただの玩具です」


 黒川は嘲るように言った。


「私の国では、あんなものは子供の遊びだ。……あの『スドウ』という男は、あなた方を玩具で脅して追い払っただけなんですよ」


 ガンダルが激昂し、剣を抜いて黒川の喉元に突きつけた。


「貴様ッ! 我々が玩具に負けたと言うのか!」 「ええ、そうです。悔しいでしょう? 腹が立つでしょう? ……なら、復讐しましょうよ」


 黒川は剣先を恐れるどころか、狂気に満ちた目でガンダルを見返した。


「私には知識がある。スドウと同じ、いや、あんな若造よりもっと狡猾で、実用的な知識がね。……私を参謀として雇いなさい。そうすれば、玩具ではない『本物の兵器』を差し上げますよ」


「……本物の兵器、だと?」 「ええ。城壁を一撃で粉砕し、騎士の鎧を紙切れのように貫く魔法の粉……『黒色火薬(ガンパウダー)』をね」


 ***


 数日後。  国境付近にあるアークレイア側の砦、『北の盾』。  そこは断崖絶壁の上に作られた堅牢な要塞であり、数百年もの間、ガレリア軍の侵攻を阻んできた難攻不落の拠点だった。


 だが、その日。  早朝の静寂を切り裂いて、雷鳴のような轟音が響いた。


 ドォォォォォォォォォンッ!!!


 魔法の光ではない。物理的な爆発。  砦の城門が、内側から弾け飛び、木っ端微塵に粉砕されたのだ。


「な、なんだ!? 何が起きた!?」 「城門が吹き飛んだぞ! 敵襲だーッ!」


 混乱するアークレイア兵。  そこへ、黒煙の中からガレリア軍が雪崩れ込んできた。


「進めェェェッ! 『クロカワ式破城槌』の威力を見よ!」


 ガンダル将軍が叫ぶ。  彼らが使ったのは、単なる樽爆弾だ。  木炭、硫黄、硝石。この世界にもありふれた素材を、黒川の知識によって最適な比率で混合し、密閉容器に詰めて導火線をつけただけの、原始的な爆弾。  だが、剣と魔法しか知らないこの世界の人間にとって、それは「防御不能の災厄」だった。


 砦はわずか一時間で陥落した。  生存者が持ち帰った報告を聞き、王城の会議室はパニックに陥った。


「魔法結界が反応しなかっただと!?」 「爆裂魔法でもないのに、城門が吹き飛ぶはずがない!」


 シャルロット王女の横で、俺は報告書を読み、歯噛みした。


「……硝煙の臭い。間違いなく『火薬』だ」


 やはり、黒川だ。  奴はやりやがった。  俺が産業やインフラのために使っていた現代知識を、奴は純粋な「暴力」として輸出しやがった。


「ケンイチ……。ガレリア軍が『悪魔の知恵袋』を得たという噂は本当なのね」 「ああ。奴は俺の元上司だ。……効率のためなら倫理を無視し、平気で部下を切り捨てる男だ」


 俺は拳を握りしめた。  黒川は、この異世界戦争のルールを変えてしまった。  これまでは「魔法 vs 現代の平和利用技術」だった。  だがこれからは違う。  「現代兵器 vs 現代兵器」の、血で血を洗う殺し合いになる。


「……殿下。俺に全権をください」


 俺は顔を上げた。


「黒川は、火薬という『パンドラの箱』を開けた。なら、こっちはそれを封じ込める『蓋』を用意します」 「勝てるの?」 「勝たせます。……現代知識の使い方において、あんな三流の横領犯に負けるつもりはありませんから」


 俺は『ゼロ・ベース』に戻ると、即座にドーガン親方を呼び出した。  作るべきものは決まっている。  火薬に対抗するための、防御兵器。  そして、黒川の慢心を利用した、現代人ならではの「罠」だ。


 国境線で睨み合う、二人の転移者。  異世界代理戦争の幕が上がった。

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