第28話 冒険の始まりと、異世界の小さな姫君
日本の八月。 蝉時雨が降り注ぐ、うだるような暑さの中。 俺は実家の蔵の前で、小さなボストンバッグを提げた少女を待っていた。
「パパ!」
麦わら帽子に白いワンピース。汗を拭いながら走ってきたのは、小学五年生になる娘・結衣だ。 その顔は、夏休みの冒険を前にした興奮で紅潮している。
「よく来たな、結衣。ママには何て言ってきたんだ?」 「『友達の家の別荘にキャンプに行く』って。あながち嘘じゃないでしょ?」
結衣は悪戯っぽく舌を出した。 賢い子だ。スマホのGPSは、あらかじめ俺が用意したダミーの端末(成田空港のロッカーに入れてある)に反応するように細工してある。これで元妻や黒川の監視を欺ける。
「ああ、嘘じゃない。パパの『別荘』は、ここから少し遠いけどな」
俺は蔵の重い扉を開けた。 ひんやりとした空気が流れ出す。
「準備はいいか? ここから先は、パスポートも飛行機もいらない。だけど、今まで見たこともない世界だ」 「うん。パパがいるなら、どこでも平気」
俺は結衣の手を引いた。 小さく、少し汗ばんだ手。この手を守るために、俺は戦ってきたのだ。
筵(むしろ)をめくり、床下のゲートを開く。 光が歪む。 俺たちは、境界を越えた。
***
一瞬の浮遊感の後。 視界いっぱいに広がったのは、日本とは違う、深く澄み渡った群青色の空だった。
「わあ……」
結衣が息を呑む。 目の前に広がるのは、かつて『嘆きの荒野』と呼ばれた場所。 だが今は、俺たちが建設した『ゼロ・ベース』だ。 銀色に輝くプレハブ工場、整然と並んだソーラーパネル、そして遠くに見える巨大な城塞都市のシルエット。 風は乾燥していて、日本の湿気た暑さとは違う、肌を撫でるような心地よさがある。
「ここが……異世界?」 「そうだ。アークレイア王国。パパの新しい職場だ」
その時だった。
「社長! お戻りですか!」
ドシドシと地響きを立てて走ってくる影があった。 身長二メートルの巨体。銀色の毛並み。鋭い牙。 警備隊長のヴォルグだ。彼は黒のスーツを着崩し、サングラスをかけているが、その迫力は完全に「モンスター」のそれだ。
「ひっ……!」
結衣が俺の背中に隠れる。 しまった。ヴォルグの見た目は、子供には刺激が強すぎたか。
「おっと、すまねえ。客人がいるとは知らなくてな」
ヴォルグが足を止め、サングラスを外した。 その強面が、申し訳無さそうに歪む。
「……あ」
結衣がおずおずと顔を出した。 そして、ヴォルグの頭の上にある「三角の耳」と、お尻で揺れる「フサフサの尻尾」を凝視した。
「……ワンちゃん?」 「ブフォッ!?」
ヴォルグが吹き出した。 俺も笑いを堪えるのに必死だった。あのスラムのボス狼が、ワンちゃん扱いとは。
「お嬢ちゃん、俺は狼だ。誇り高きウェアウルフの……」 「ふわふわだぁ……!」
結衣は恐怖よりも好奇心が勝ったらしい。 駆け寄ると、ヴォルグの腰に抱きつき、その太い尻尾に顔を埋めた。
「すごーい! ぬいぐるみみたい! あったかい!」 「お、おい! 社長、どうなってんだ!? 俺の尻尾は敏感なんだぞ!」 「諦めろヴォルグ。それは俺の娘だ。つまり、この商会の『お姫様』だぞ」
その言葉を聞いた瞬間、ヴォルグの顔色が変わった。 彼はあわてて膝をつき、結衣の目線に合わせると、恭しく頭を下げた。
「な、なんと……! これは失礼いたしました、お嬢様(リトル・レディ)。社長の御息女とは露知らず……」 「えへへ、おっきいワンちゃん、いい子いい子」
結衣に頭を撫でられ、満更でもなさそうに尻尾を振るヴォルグ。 最強の警備隊長が、一瞬で陥落した。
そこへ、プレハブのドアが開き、エリスが出てきた。 今日の彼女は、作業着ではなく、先日仕立てたばかりの『星の絹』を使ったサマードレス姿だ。
「ケンイチ、おかえりなさい。……あら?」
エリスは結衣を見て、目を丸くした。 そして、すぐに優しい笑みを浮かべて近づいてきた。
「はじめまして。あなたが結衣ちゃんね? ケンイチから、いつも話を聞いているわ」 「……はじめまして」
結衣が少し緊張した面持ちで挨拶する。 エリスの美しさに圧倒されているのか、それとも「パパの近くにいる綺麗な女性」への警戒心か。 だが、エリスは膝を折り、結衣の手を取って言った。
「私はエリス。あなたのお父さんの『部下』よ。……あなたのお父さんはね、この国で一番すごい商人なの。私たちを、絶望から救い出してくれた英雄なのよ」
エリスの言葉には、嘘偽りのない敬意と感謝が込められていた。 それを感じ取ったのか、結衣の表情が和らぐ。
「……パパ、本当にすごいの?」 「ええ。この工場も、あそこで動いている鉄の竜(ユンボ)も、全部お父さんが作ったのよ」
結衣が俺を見上げた。 その瞳キラキラと輝いている。 日本にいた頃の、疲れ切って背中を丸めていたサラリーマンの俺ではない。 異世界で胸を張り、多くの仲間を従える「頼れる父親」としての俺を見てくれている。
「……パパ、かっこいい」 「そうか? まあ、これくらい普通だ」
俺は照れ隠しに鼻をこすった。 「さあ、立ち話もなんだ。中に入ろう。結衣のために、とっておきの『冷たいおやつ』を用意してあるぞ」 「おやつ?」 「ああ。この世界にはない、パパ特製のフルーツパフェだ」
俺たちは笑い合いながら、プレハブ事務所――俺たちの城へと入っていった。 外では、ヴォルグたちが「お嬢様が来たぞ!」「歓迎の宴の準備だ!」と大騒ぎしている。
こうして、結衣の「異世界夏休み」が始まった。 宿題の日記には書ききれない、一生忘れられない冒険の日々。 だが、平和なバカンスだけで終わるはずがない。 俺はこの時、まだ知らなかった。 結衣が日本から持ってきた「あるゲーム機」が、王城の王子様を巻き込む大騒動に発展することを。 そして、娘の無邪気な一言が、新たなビジネスチャンスを生むことを。
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