第19話 飢えた狼と、3分間の奇跡
城塞都市の光と影。 華やかな大通りから一本路地を入れば、そこは汚水と腐臭が漂うスラム街だった。 木板を継ぎ接ぎしただけのバラック小屋。痩せこけた犬。そして、虚ろな目でこちらを見る住人たち。
「……ケンイチ、引き返さない? 視線が痛い」 「堂々としていろ。弱みを見せれば、ここでは餌食になる」
俺はエリスの手を引き、泥濘(ぬかるみ)を避けて進んだ。 確かに視線を感じる。だが、それは人間の貧民たちの視線ではない。 もっと鋭く、野生的で、捕食者のような気配。
廃墟となった広場に出た時、その気配は実体となって俺たちを包囲した。
「――止まれ、人間」
低い唸り声と共に、瓦礫の影から次々と人影が現れた。 三角の耳。長く太い尻尾。全身を覆う剛毛。 獣人(ウェアビースト)。 彼らは手に錆びた剣や棍棒を持ち、殺意に満ちた目で俺たちを睨みつけていた。
「ここは貴様らのような小奇麗な連中が来ていい場所じゃねえ。身ぐるみ剥がれる前に失せろ」
群れを割って現れたのは、一際巨大な狼の獣人だった。 身長は二メートル近い。銀色の体毛には無数の古傷が走り、片耳が半分欠けている。 圧倒的な威圧感。この群れのボスだ。
「あなたがリーダーか。俺は商人の須藤だ。こちらはエリス」 「商人だと?」
狼男――ヴォルグは、侮蔑を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「どうせ『奴隷狩り』か、違法な『臓器売買』の仲介屋だろう。俺たち亜人(デミ)は人間にとって、家畜以下の消耗品だからな」
周囲の獣人たちがジリジリと間合いを詰める。 エリスが小さく悲鳴を上げる。 言葉で説得するのは無理か。彼らの人間不信は骨の髄まで染み込んでいる。
なら、まずは「腹」から攻略する。
「誤解しないでほしい。俺はあなた達を『雇い』に来た。……だが、まずは挨拶代わりだ」
俺は台車の上から、とあるカップ容器を取り出した。 『カップヌードル・カレー味』。 そして、魔法瓶から熱湯を注ぐ。
「……なんだそれは。毒煙か?」 「ただの食事ですよ。三分間、待ってください」
一分、二分……。 蓋の隙間から、湯気と共に強烈な香りが漏れ出し始めた。 スパイシーで濃厚な、カレーとフライ麺の混ざり合った魔性の香り。 嗅覚の鋭い獣人たちにとって、それは暴力的なほどの刺激だったはずだ。
「な、なんだこの匂いは……肉か? 香辛料か?」 「ゴクリ……」
喉を鳴らす音が、あちこちから聞こえる。 三分経過。俺は蓋を剥がし、ヴォルグの前に差し出した。
「毒見は俺がしますか?」 「……よこせ」
ヴォルグはひったくるようにカップを受け取ると、警戒しながらもスープを一口啜った。
その瞬間、彼の狼耳がピンと立った。
「ッ!?」
彼は目を見開き、次は麺をフォーク(プラスチック製)で掻き込んだ。 ズルズルッ! ハフハフッ! 止まらない。彼は一言も発さず、一心不乱に麺を啜り、スープを飲み干した。
「……美味い」
空になった容器を握りしめ、ヴォルグが呟いた。
「なんだこれは。とろみのあるスープ、噛みごたえのある細い麦……それに、身体の内側から力が湧いてくるような熱(スパイス)……。王族でもこんなモンは食ってねえぞ」 「日本の……東方の『即席麺』です。俺と契約すれば、これを毎日、腹いっぱい食わせてやる」
獣人たちがざわめいた。 飢えとの戦いが日常の彼らにとって、それは魂を売っても惜しくない条件だ。 だが、ヴォルグは鋭い眼光を崩さなかった。
「……餌で釣る気か。だが、俺たちの誇りは売らん。人間に飼われるくらいなら、野垂れ死んだ方がマシだ」
頑固だ。だが、それでこそリーダーだ。 その時、群れの後ろから小さな咳き込む音がした。 見れば、幼い猫人の少女が、足を引きずって歩いてくる。その脚には、赤黒く腫れ上がった傷があった。
「パパ……いい匂い……」 「ミージャ! 出てくるなと言っただろう!」
ヴォルグが慌てて駆け寄る。娘か。 傷口は酷い。化膿し、腐敗臭が漂っている。破傷風か壊死の一歩手前だ。
「この傷……早く治療しないと脚を切ることになるぞ」 「分かってる! だが、人間の医者は亜人を診てくれねえ! 薬屋も俺たちには薬を売らねえんだ!」
ヴォルグが悲痛な叫びを上げた。 社会的な排除。それがこのスラムの現実だ。
「どいてくれ」
俺はヴォルグを押しのけ、少女の前に跪いた。 『次元倉庫』から救急セットを取り出す。
「な、何をする気だ!」 「治すんだよ」
俺は『マキロン(消毒液)』を取り出し、傷口に吹きかけた。 シュワシュワと白い泡が立ち、汚れを浮かび上がらせる。
「痛いか? 少し我慢しろよ」
少女が涙目で頷く。 次に、抗生物質入りの軟膏をたっぷりと塗り込み、清潔なガーゼと包帯で手早く固定した。 さらに、子供用の解熱鎮痛剤(シロップ)を飲ませる。
「……これで熱は下がる。あとは清潔にして、栄養のあるものを食えば治る」
俺は立ち上がり、ヴォルグに残りの薬と、保存食の缶詰を渡した。
「……なぜだ?」
ヴォルグが震える声で問うた。
「なぜ人間に忌み嫌われる俺たちに、ここまで……。高価な薬だろう?」 「俺は商人だ。損得で動く」
俺はまっすぐに彼の目を見た。
「俺は今、人手が足りなくて困っている。欲しいのは『奴隷』じゃない。俺の背中を預けられる、優秀な『社員(パートナー)』だ。……人間社会から弾き出され、それでも生きようとするお前たちの強さが欲しい」
ヴォルグはしばらく俺を凝視していたが、やがて深く息を吐き、その場に片膝をついた。
「……負けたぜ、人間。いや、スドウと言ったな」
彼は頭を垂れた。それは服従のポーズではなく、戦士が王に向ける敬意の礼だった。
「俺の命はくれてやる。だが、仲間には……ミージャには、腹いっぱい食わせてやってくれ」 「ああ、約束する。ウチの福利厚生は手厚いぞ」
俺は彼の手を取り、立たせた。 ゴツゴツとした巨大な手。 その握手は、俺たちがアークレイアの「闇」をも味方につけた瞬間だった。
「ようこそ、株式会社・境界貿易へ。……まずは風呂に入って、身なりを整えるところから始めようか」
こうして俺たちは、最強の警備員にして、疲れを知らぬ労働力――獣人部隊を手に入れた。 彼らがスーツ(もちろん俺が用意した)を着込み、サングラスをかけて店の前に立った時、ローゼンバーグ商会は「誰も手出しできない聖域」へと変貌することになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます