第3話 その価値、金貨三十枚につき
「ローゼンバーグ商会の荷だ! 通してちょうだい!」
エリスの凛とした声が、喧噪の門前に響いた。 先ほどまで泣き崩れていた少女とは別人のような、堂々とした立ち振る舞いだ。 衛兵たちは俺の薄汚れたスウェット姿を見て眉をひそめたが、エリスが懐から見せた紋章入りの通行手形と、彼女が抱える荷物の「異常なまでの慎重な扱い」を見て、渋々と道を空けた。
「……フン、落ちぶれ貴族が。変な浮浪者を拾いおって」
すれ違いざまに吐き捨てられた言葉。エリスの肩がビクリと跳ねたが、彼女は唇を噛んで前を向き続けた。 俺はその背中を見ながら、冷静に損益分岐点を計算していた。 彼女は信用(クレジット)を失いつつある。だが、まだ「腐っても貴族」という看板はある。 俺という異物がこの街で活動するには、最適な隠れ蓑(フロント)だ。
門をくぐると、そこは石とレンガの迷宮だった。 馬車の車輪が石畳を叩く音、露店商人のダミ声、どこかの工房から響く槌の音。 活気はある。だが、衛生状態は最悪だ。道端には汚水が流れ、鼻をつく悪臭が漂う。
「こっちよ。私の店……兼、自宅があるの」
案内されたのは、大通りから二本ほど裏に入った路地の一角だった。 古びているが、手入れの行き届いた三階建てのレンガ造りの建物。 看板には『ローゼンバーグ商会』の文字。だが、ショーウィンドウには商品がほとんど並んでおらず、薄暗い店内は閑古鳥が鳴いていた。
「散らかっていてごめんなさい。従業員はみんな……給金が払えなくて、辞めてしまったから」
エリスは申し訳無さそうに言いながら、俺を奥の応接室へと通した。 重厚なオーク材のテーブル。そこへ、彼女は震える手で「例のモノ」を置いた。
ダイソー製、百円のガラスコップ。 薄暗い室内で、窓から差し込む一筋の光を受け、それは神々しいまでの輝きを放っていた。
「……さて、エリスさん。商談を始めましょう」
俺はふんぞり返ることなく、ビジネスパートナーとして対等の位置に座った。
「単刀直入に聞きます。このコップ、いくらで買い取ってくれますか?」
エリスはゴクリと喉を鳴らした。 彼女は商人の顔つきになり、懐から片眼鏡(モノクル)を取り出して装着する。 指先でガラスの表面をなぞり、爪で軽く弾いて音を聞き、底の刻印(MADE IN CHINAというシールだが)を確認する。
「……信じられない。改めて見ても、異常だわ」 「評価は?」 「『無色の宝器(クリア・アーティファクト)』……それも、最高等級(ハイ・グレード)。王都の大聖堂にある聖遺物入れでさえ、ここまでの透明度はないわ」
彼女は一度言葉を切り、意を決したように俺を見た。
「正直に言うわ。今の私の手持ち資金では、この『国宝級』の適正価格を払うことは不可能です」 「……ほう」 「でも、私が持てる限りの現金をすべて出します。これで譲ってください。これを王都のオークションにかければ、家の借金を返してもお釣りがくる……!」
彼女が金庫から取り出し、テーブルの上に並べたのは、重厚な輝きを放つ硬貨の山だった。
「金貨三十枚。これが今のローゼンバーグ商会の全財産です」
俺は表情を崩さずに、内心で冷や汗をかいた。 事前の【鑑定眼】による市場調査で、通貨の価値はおおよそ掴んでいる。
銅貨一枚=百円(パン一個)。 銀貨一枚=千円(宿屋一泊)。 金貨一枚=十万円(一般市民の年収の数分の一)。
つまり、金貨三十枚ということは……。
(……三百万、円……?)
百円の商品が、三百万円。 利益率、三百万パーセント。 アパレル業界の原価率なんて目じゃない。麻薬売買ですら裸足で逃げ出すレベルの、異常な暴利だ。
喉が渇く。心臓が早鐘を打つ。 これがあれば、当面の生活費は賄える。消費者金融への利息も払える。 だが、俺は商社マンだ。 目先の利益(キャッシュ)だけで動いては、二流で終わる。
俺はテーブルの上の金貨を、指先で弾いた。 チャリン、と小気味よい音が響く。
「……エリスさん。貴女はこれを王都で売ると言った」 「え、ええ。この街のギルドに売れば、足元を見られて買い叩かれるから……」 「なら、この金貨は受け取れません」
エリスの顔が青ざめる。 俺はすかさず言葉を継いだ。
「金貨五枚だけ、前金として頂きましょう」 「え……?」 「残りの二十五枚は、貴女への『投資』です。その金で、馬車を修理し、護衛を雇い、王都へ行く準備をしなさい。そして、このコップを最高値で売ってきてください。売上は折半でどうです?」
エリスがぽかんと口を開けた。 無理もない。どこの馬の骨とも知れない男が、全財産を持ち逃げされるリスクを負ってまで、信用貸し(クレジット)を申し出ているのだ。
だが、俺には計算があった。 金貨三十枚は魅力的だが、それを持ってスウェット姿の俺が街を歩けば、即座に強盗に遭うか、衛兵に没収されるのがオチだ。 それに、俺には「現地での販売ルート」が必要だ。 エリスという「没落貴族の商会」を再建させ、そこを隠れ蓑にして日本製品を流す。その方が、長期的利益(LTV)は遥かに大きい。
「わ、私を……信用するの? 裏切って持ち逃げするかもしれないのに?」 「裏切るような人間は、自分の宝物(ガラス瓶)が割れた時に、あんな風に泣いたりしませんよ」
俺はニカっと笑ってみせた。 エリスの瞳が揺れ、やがて大粒の涙が溢れ出した。
「っ……ありがとう……! 私、絶対に……絶対にあなたを損させない!」
「期待してますよ、パートナー」
俺は金貨五枚――五十万円相当――をジャージのポケットにねじ込んだ。 重い。 この重みは、希望の重みだ。
これで、まずは最低限の身なりを整えられる。 そして日本へ戻り、とりあえずの借金利息を払うことができる。
(待ってろよ、結衣。パパは、まだ終わっちゃいない)
俺とエリスは、硬い握手を交わした。 百均のコップ一つから始まった、世界を股にかける大商会の、これが最初の契約だった。
だがこの時の俺はまだ知らなかった。 この「無色の宝器」が王都で予想を遥かに超える騒動を引き起こし、俺たちを国家規模の陰謀に巻き込んでいくことになろうとは。
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