第2話 城塞都市アークレイアと、百均の聖杯
森を抜けるのに、それほど時間はかからなかった。 道なき道を歩くこと三十分。木々の切れ間から、その「都市」の全貌が露わになった。
城塞都市アークレイア。 灰色の巨石を積み上げた城壁は高さ二十メートルはあるだろうか。壁の至る所に刻まれた傷跡が、この世界が決して平和なだけの牧歌的な場所ではないことを物語っている。
(空気が……重いな)
俺はジャージの襟元を直しながら、深く息を吸い込んだ。 土と、焦げた油と、家畜の匂い。そして微かに漂う、鉄錆のような血の匂い。 かつて駐在していた東南アジアの新興国とも、中東の紛争地帯とも違う。もっと根源的な「生存競争」の気配が満ちていた。
俺の服装は、掃除の時に着ていた古びたグレーのスウェット上下に、サンダル履き。 どう見ても不審者だが、手ぶらで歩いている分には、まだ警戒されにくいかもしれない。いや、むしろ「荷物を持たない無防備な男」として、カモにされるのがオチか。
俺は慎重に街道へ出た。 都市の門へと続く道には、ボロ布を纏った農民らしき人々や、荷馬車を引く商人たちが列をなしている。
「おい、止まれ! 通行証を見せろ!」 「頼むよ、この野菜を売らないと娘が……」 「知ったことか! 税を払えぬ者は門を通さん!」
門の前では、衛兵の怒鳴り声が響いていた。 言葉は……分かる。 耳に入った瞬間に、脳内で自動的に日本語へと変換されている感覚だ。【鑑定眼】に付随する翻訳機能か、あるいは【次元倉庫】の副作用か。とにかく、コミュニケーションの壁がないのは僥倖だった。
列の最後尾に並ぼうとした、その時だった。 道の脇に停められた一台の荷馬車の陰で、うずくまっている少女の姿が目に入った。
くすんだ亜麻色の髪。仕立ては良さそうだが、泥で汚れた紺色のドレス。 歳は十九か二十歳くらいか。彼女は地面に散らばった「破片」を拾い集めながら、肩を震わせていた。
「……あぁ、嘘よ……そんな……」
彼女の手にあるのは、割れた瓶のようなものだった。 俺は無意識に【鑑定眼】を発動させた。
【名称:アークレイア製・緑ガラスの香油瓶(破損)】 【詳細:気泡が多く、不純物が混ざった低品質なガラス。現地評価額:銀貨5枚(破損のため価値なし)】
(あれが……ガラス?)
俺は目を疑った。 どう見ても、海岸に落ちているシーグラスのように濁っている。色も汚い緑色で、表面はデコボコだ。 だが、少女の絶望しきった表情を見るに、彼女にとっては全財産に近い価値があるものなのだろう。
「……どうしました?」
俺は商社マン時代に培った、もっとも当たり障りのない、かつ紳士的なトーンで声をかけた。 少女が弾かれたように顔を上げる。 涙で濡れたその瞳は、意志の強さを感じさせる碧眼だった。
「ひっ……! あ、あなたは……?」 「怪しい者じゃありません。旅の者です。ひどく落ち込んでおられるようだが」
少女――エリスは、警戒心を露わにしながらも、他にすがる相手もいないのか、掠れた声で答えた。
「……荷馬車の車輪が轍(わだち)にはまって……商品が、全部割れてしまったの。これは、父様の薬代を稼ぐための大切な商品だったのに……」
彼女の視線が、荷台の木箱に向けられる。中には、同じような濁ったガラス瓶の破片が散乱していた。 どうやら、この世界ではこの程度のガラス製品でも、それなりの商品価値があるらしい。
「ギルドへの納品期限は今日まで……。商品がなければ、違約金で家まで取られてしまう……」
彼女は再び顔を覆った。 なるほど、事情は分かった。 没落寸前の商家の娘。借金。納品トラブル。 ……ビジネスの匂いがする。
俺は、スウェットのポケットに手を突っ込んだ。 そこには、掃除の合間に水を飲もうと思って持ってきた、俺の私物が入っている。 百円ショップ『ダイソー』で買った、三個セット百円のガラスコップだ。 飲みかけの水がまだ少し残っている。
「お嬢さん。もしよければ、これで水を飲みませんか? 落ち着きますよ」
俺はポケットから、そのコップを取り出した。 アークレイアの太陽の光が、そのガラスを透過する。
――瞬間。 少女の碧眼が、極限まで見開かれた。
「え……?」
彼女だけではない。 周囲にいた農民や、遠巻きに見ていた他の商人たちまでもが、息を呑む気配がした。
百均のコップは、一点の曇りもなく、完全に透明だった。 歪みひとつない円筒形。 中に入っているただの水道水が、まるで空中に浮遊しているかのように見えるほどの透過度。
「な、なに、それ……?」
エリスの声が震えている。 彼女は割れた自分のガラス瓶(緑色の塊)と、俺の手にあるコップを交互に見た。
「ミスリル? いいえ、まさか……ダイヤモンドを、削り出したの……?」 「いいえ、ただのガラスですよ」 「ガラスなわけがないでしょう!」
彼女は俺の手首を掴み、コップを凝視した。その距離、数センチ。 商社マン時代、数多のバイヤーを見てきた俺には分かる。 これは「欲しい」という欲求を超えた、「信仰」に近い眼差しだ。
「色が……ない。気泡が、ひとつもない。こんな『無色の宝器(クリア・アーティファクト)』、王城の宝物庫にだってあるかどうか……」
彼女は震える手で、俺を見上げた。
「あ、あなた……これを、いくらで売ってくれるの? いえ、私の全財産でも足りないかもしれないけれど……!」
俺は内心で、ガッツポーズをした。 予想以上だ。 技術レベルの低いこの世界では、「不純物のない透明なもの」を作り出すことは至難の業なのだ。 日本の工業製品が当たり前に実現している「均質性」と「純度」。 それがここでは、魔法をも凌駕する奇跡として扱われる。
「お嬢さん。俺はここに来たばかりで、この国の通貨を持っていないんです」
俺はコップを彼女の手に握らせた。
「このコップを貴女に預けます。代わりに――俺の身元保証人になって、この都市へ入れてくれませんか? 商売の話は、そのあとでゆっくりしましょう」
エリスは、宝石を扱うよりも慎重にコップを両手で包み込むと、何度も何度も頷いた。
「わ、わかったわ! 私の名前はエリス。エリス・フォン・ローゼンバーグ。……必ず、あなたに報いてみせる!」
俺は彼女の肩越しに、そびえ立つ城壁を見上げた。 黒川よ、見ているか。 お前が俺をゴミのように捨てた場所から、俺は這い上がってみせる。 たった一個の、百円のコップから。
(待ってろよ、結衣。お土産はいっぱい買って帰るからな)
俺の、異世界での最初の商談が成立した瞬間だった。
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