境界の行商人 ~リストラされた42歳元商社マン、実家の蔵から異世界と日本を往復貿易。100均グッズを売って金貨を稼ぎ、奪われた愛娘と人生を取り戻す~

RIU

第1話 終わりの始まりと、蔵の中の光

雨の匂いが混じったカビ臭い空気が、肺の奥に沈殿していくようだった。


 築八十年を超える木造の母屋。その離れにある、埃を被った土蔵。そこが、四十二歳になった俺、須藤健一(すどう・けんいち)の現在の「城」だった。


「……あいつら、本当に全部持って行きやがったな」


 スマホの画面をタップし、ネットバンキングの残高を確認する。  数字は、無慈悲に四桁を表示していた。今月末の引き落としすら危うい。  大手総合商社『東都商事』の資源開発部課長。年収一千二百万。都心のタワーマンションに、輸入車のSUV。  かつて俺を構成していたステータスは、半年前、部下の横領の罪を擦り付けられたことで霧散した。


 懲戒解雇。  退職金はゼロ。  妻の真理子は、俺が無実を訴える声を聞こうともせず、即座に離婚届を突きつけた。慰謝料代わりにマンションと貯金のほぼ全てを奪い、俺を家から追い出したのだ。


『パパ、げんき?』


 ふと、スマホが短く震えた。  通知欄に表示されたのは、無料通話アプリのポップアップではなく、あえて目立たないように使っているフリーメールの着信通知だった。  差出人は『YUI』。  一人娘の結衣だ。小学五年生になる彼女だけが、この世界で唯一残された俺の味方だった。


『ママがまたパパの悪口言ってた。すごくムカつくから、ママの化粧水に水道水まぜといた。パパは悪くないよ。絶対にあきらめないでね』


 文面のあどけなさと、やってることの陰湿な健気さに、渇ききっていた目頭が熱くなる。  結衣は賢い子だ。俺が濡れ衣を着せられたことも、母親がそれを好機と捉えて新しい男——俺を陥れた元同僚の黒川だ——に乗り換えようとしていることも、敏感に察知している。


「……ああ、諦めるもんか」


 俺は画面の中の娘に向かって、小さく、けれど力強く呟いた。  このまま野垂れ死ぬわけにはいかない。結衣を迎えに行く。そのためには金が必要だ。社会的信用を取り戻す必要がある。  だが、四十二歳、懲戒解雇歴ありの中年男を雇う企業など、今の日本には存在しなかった。


 苛立ちを紛らわせるように、俺は土蔵の整理を再開した。  亡くなった両親が遺したこの家と蔵だけが、俺に残された資産だ。金目の骨董品でも出てくればいいが、出てくるのはガラクタばかり。


「ん……? なんだ、これ」


 蔵の最奥。何重にも巻かれた筵(むしろ)をどけた床板の下に、奇妙な空間があった。  最初は地下室かと思った。  だが、懐中電灯の光を当てても、底が見えない。それどころか、光が歪んで吸い込まれているように見える。  まるで、空間そのものがねじれているような――。


 その時だった。  俺の視界に、半透明のウィンドウのようなものが浮かび上がった。


『次元干渉を確認。生体認証……完了。マスター権限を譲渡します』 『固有スキル:【次元倉庫(アイテムボックス)】および【鑑定眼(グレーディング)】をインストールしました』


「は……? なんだ、これ。AR(拡張現実)のグラスなんてかけてないぞ」


 俺は慌てて目をこすった。だが、文字は消えない。  それどころか、足元の「穴」から、むせ返るような濃密な空気が噴き出してきた。  それは雨の匂いではない。  もっと野生的で、甘く、危険な香り。森と土、そして嗅いだことのないスパイスのような刺激臭。


 商社マンとしての勘が、全身の毛穴を逆立てて警鐘を鳴らす。  同時に、本能が告げていた。  ——ここには、『チャンス』がある。


 俺は震える手で、近くにあった掃除用のデッキブラシを穴へ差し込んでみた。  ブラシの先端が、何もない空間へ消える。引き戻すと、先端は濡れており、見たこともない青紫色の葉が付着していた。


「日本じゃない……?」


 心臓が早鐘を打つ。  俺は覚悟を決めた。  失うものなど、もう何もない。あるのは、取り戻すべき娘との未来だけだ。


 俺は、その「境界」へと足を踏み入れた。


 ***


 視界が一瞬、ホワイトアウトした。  次に目を開けた時、俺は鬱蒼とした森の中に立っていた。  頭上には、見たこともない巨大な樹木が天を覆い隠すように枝を広げている。  だが、俺の目を釘付けにしたのは、木々の隙間から見える光景だった。


 遠くに見える、灰色の巨大な石壁。  その内側にひしめく、レンガ造りの家々。  そして、空に浮かぶ……あれは、飛空艇か? いや、巨大な生物の骨格を利用した船のように見える。


「……マジかよ」


 ファンタジー映画のセットではない。風の肌触りも、草木の匂いも、すべてが圧倒的な「現実」として迫ってくる。  俺は無意識に、足元の石ころを拾い上げた。  ただの石だ。だが、先ほど手に入れたという【鑑定眼】を意識した瞬間、脳内に情報が流れ込んできた。


【名称:魔光石の欠片(低品質)】 【詳細:わずかに魔力を帯びた石。精製すれば燃料となる。現地買取相場:銀貨3枚(約3,000円相当)】


「……は?」


 俺は思わず声を出した。  ただの石ころが、三千円?  足元を見る。そこら中に、同じような石が転がっている。


 俺の脳裏に、商社マン時代に叩き込まれた「裁定取引(アービトラージ)」という言葉が閃光のように走った。  価格差を利用して利ざやを抜く。商売の基本中の基本。


 もし、この世界で「価値がない」とされているものが、日本では宝だとしたら?  逆に、日本の「百均のガラクタ」が、ここでは秘宝になるとしたら?


 俺の口元が、半年ぶりに自然と歪んだ。  それは自嘲ではない。獲物を見つけた捕食者の笑みだった。


「商談成立(ディール)だ。……これなら、いける」


 四十二歳、無職、バツイチ。  どん底から這い上がるための「梯子」を、俺は見つけたのかもしれない。

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