第二章 傾いた城壁
歩き始めて二時間ほどが経った頃、誠司は街道らしき道に出た。
道、と言っても舗装されているわけではない。土を踏み固めただけの、素朴な道。しかし、轍の跡が残っていることから、馬車か何かが頻繁に通っているのだろうと推測できた。
誠司は道に沿って歩いた。
道があるということは、どこかに人がいる。人がいるところに行けば、情報が得られる。単純な論理だが、確実な論理でもある。
やがて、道の先に建物が見えてきた。
城壁だ。
高さは——目測で十メートルほどか。石積みの壁が、視界の両端まで続いている。その向こうに、建物の屋根が見える。街だ。
誠司は足を速めた。
城壁に近づくにつれ、その姿がはっきりと見えてくる。そして、見えてくるにつれ、誠司の眉が寄っていった。
傾いている。
城壁が、明らかに傾いている。
建設のプロとして十五年間働いてきた誠司の目に、それは一瞬で分かった。壁の上端が、あるべき位置より外側にずれている。目測で——十センチ以上はあるか。
近づいて、さらに詳しく観察した。
石積みの目地に、ひび割れが走っている。壁の根元部分は、一部が地面にめり込んでいるように見える。
「不同沈下だな」
誠司は呟いた。
不同沈下。建物の基礎が均一に沈下せず、一部だけが沈むことで建物全体が傾く現象。原因は様々だが、多くは地盤の問題だ。
この城壁も、おそらく同じだろう。基礎の下の地盤が、一部だけ弱かったか、あるいは水の浸透によって地盤が緩んだか。いずれにせよ、このまま放置すれば、いずれ壁は崩壊する。
「おい、そこの者」
声がかかった。
誠司が顔を上げると、城壁の上に人影があった。兵士だろうか。鎧を着て、槍を持っている。
「ここは何の用だ」
兵士の声には、警戒の色があった。無理もない。見知らぬ男が、城壁の前でじっと壁を見つめていたのだから。
「旅の者だ」誠司は答えた。言葉は自然に出てきた。ルシェラの言った通り、この世界の言語は問題なく理解でき、話すこともできるようだ。「この街に入りたい。門はどこだ」
「少し先だ。だが——」兵士は誠司を上から下まで眺めた。「お前、変な格好をしているな。どこから来た」
「遠くから来た。この国のことは、よく知らない」
嘘ではない。
兵士は少し考えるような顔をして、それから槍の先を右の方に向けた。
「門はあっちだ。入るなら、門番に名乗れ。怪しい真似はするなよ」
「分かった。礼を言う」
誠司は歩き始めた。
城壁に沿って歩きながら、彼は壁の状態を観察し続けた。傾きは一定ではなく、場所によって程度が異なる。おそらく、地盤の状態が均一ではないのだろう。傾きがひどい部分と、そうでもない部分がある。
最もひどい部分では、壁の上部が三十センチ近く傾いているように見えた。あれは危険だ。今すぐ崩れることはないかもしれないが、大きな地震や強風があれば、一気に崩壊する可能性がある。
門に着いた。
木製の大きな門。両側に門番の兵士が立っている。
「旅の者だ。入りたい」
誠司が声をかけると、門番の一人が近づいてきた。
「名前は」
「鷹野誠司」
「……変わった名前だな。どこの出身だ」
「東の、遠い国だ」
門番は怪訝そうな顔をしたが、それ以上追及はしなかった。
「何の目的で来た」
「仕事を探している」
「仕事?」
「ああ。建物を建てる仕事だ。この街で、そういう仕事はあるか」
門番は、もう一人の門番と顔を見合わせた。
「建築か。確かに、最近はいろいろと工事があるようだが……」
「詳しいことは、誰に聞けばいい」
「役所だな。街の中心に行けば分かる」
「ありがとう」
誠司は門をくぐった。
街の中に入ると、活気のある光景が広がっていた。
石畳の道。両側に立ち並ぶ建物。行き交う人々。売り声を上げる商人。籠を背負った女性。走り回る子供たち。
中世ヨーロッパの街並み、という表現が最も近いだろうか。建物は石造りか木造で、屋根は瓦か藁葺き。電線も電柱もない。当然、車もない。馬車が時々通る程度だ。
しかし、活気はある。人々の顔には、疲労の色はあるが、絶望の色はない。
この街は、まだ生きている。
誠司は街の中心に向かって歩きながら、建物を観察した。
造りは粗い。日本の建築基準で言えば、ほとんどが違法建築だろう。しかし、それなりに堅牢ではある。少なくとも、住むことに問題はなさそうだ。
ただ、維持管理は不十分だ。壁にひびが入っている建物。屋根瓦がずれている建物。木部が腐食している建物。補修すべき箇所は、数え切れないほどある。
「これが異世界の建築水準か」
誠司は呟いた。
技術的には、中世レベルというところだろう。魔法があると聞いたが、建築には活用されていないようだ。あるいは、活用する発想がないのか。
街の中心に、大きな建物があった。
役所、あるいは市庁舎のような建物だろう。門の前に兵士が立っている。誠司は近づいた。
「すまない。建築の仕事を探している。誰に話せばいい」
兵士は誠司を見下ろした。
「建築? 職人か」
「いや、職人ではない。現場の管理をする仕事だ」
「管理?」
兵士は首を傾げた。その概念が、彼には馴染みがないようだ。
「工事の段取りを組んだり、職人たちをまとめたりする仕事だ」
「ああ、棟梁のようなものか」
「似ているかもしれない」
厳密には違うが、説明が面倒なので誠司は曖昧に答えた。
「それなら、ガレス様のところだな。この建物の二階だ」
「ありがとう」
誠司は建物の中に入った。
内部は思ったよりも整然としていた。石の床、木の壁、天井からは蝋燭の照明。窓から差し込む光が、埃の舞う空気を照らしている。
階段を上り、二階へ。
廊下を歩いていると、開いた扉の向こうに人の姿が見えた。中年の男が、机に向かって書類を読んでいる。
「失礼する」
誠司が声をかけると、男は顔を上げた。
「何者だ」
「旅の者です。建築の仕事を探しています。ガレス様という方に会いたいのですが」
「私がガレスだ」
男は立ち上がった。
四十代半ばくらいだろうか。髪には白いものが混じり、顔には疲労の色がある。しかし、目は鋭い。この男は、それなりの立場にいる人間だ。誠司はそう直感した。
「建築の仕事を探していると言ったな」ガレスは誠司を値踏みするように見た。「お前、職人か」
「いいえ。現場を管理する仕事をしていました」
「管理?」
「工事の計画を立て、職人たちを束ね、品質を確保し、工期を守る。そういう仕事です」
ガレスの眉が、わずかに動いた。
「変わった仕事だな。この国では、そういう役目は棟梁がやるものだが」
「私の国では、それは別の専門職でした」
「ほう」
ガレスは椅子に座り直し、誠司に対面の椅子を示した。
「座れ。詳しい話を聞かせてもらおうか」
誠司は椅子に座った。
ガレスは机の上の書類を脇に寄せ、誠司に向き直った。
「お前の国では、建築の仕事はどのように行われているのだ」
「まず、設計者が図面を描きます。それを元に、私のような管理者が工事の計画を立てます。必要な資材、人員、工期、予算。すべてを事前に計算し、計画書を作成します」
「計画書?」
「ええ。工事の各段階で何をするか、誰がやるか、いつまでにやるか。すべてを文書にして、関係者全員で共有します」
ガレスは、興味深そうに聞いていた。
「続けろ」
「工事が始まったら、私は現場に常駐します。計画通りに進んでいるかを確認し、問題があれば対処します。品質のチェックも行います。完成した部分が、図面通りに作られているかを確認し、記録を残します」
「記録?」
「証拠です。後で問題が起きた時に、誰の責任かを明らかにするための証拠。あるいは、問題がなかったことを証明するための証拠」
ガレスは、しばらく黙って誠司の顔を見つめていた。
「お前、どこから来た」
「東の、遠い国です」
「その国の名前は」
「……申し訳ありませんが、言えません。事情があります」
ガレスの目が細くなった。
「怪しい奴だな」
「信用されないのは分かっています。ですが、私の言ったことは本当です。私は建築の管理について、専門的な知識を持っています。それを、この街のために役立てたいと思っています」
「なぜだ。なぜ見知らぬ街のために働く」
「仕事が必要だからです。私には、この世界で生きていく手段がありません。持っているのは、知識と経験だけです。それを使って、生きていくしかない」
正直に言った。
ガレスは、長い沈黙の後、ふっと息を吐いた。
「城壁を見たか」
唐突な質問だった。
「はい。見ました」
「どう思った」
「傾いています。基礎の不同沈下が原因でしょう。このまま放置すれば、いずれ崩壊します」
ガレスの目が、見開かれた。
「お前、それをひと目で分かったのか」
「私の仕事です」
「……」
ガレスは椅子から立ち上がり、窓際に歩いて行った。窓の外を見ながら、彼は言った。
「あの城壁は、この街の命綱だ。魔王軍がいつ攻めてくるか分からない今、あれがなければ街は守れない。しかし、傾いている。倒れるのは時間の問題だと、皆が分かっている」
「修理はできないのですか」
「やろうとした。だが、職人たちは『呪いだ』と言って手を出そうとしない。城壁が建てられた時、何か呪術的な儀式が行われたらしい。それが今、解けかかっていて、壁が傾いているのだと」
「呪いではありません」
誠司ははっきりと言った。
「あれは、純粋に構造的な問題です。基礎の下の地盤が、一部だけ弱いか、水の浸透によって緩んでいるか。いずれにせよ、物理的な原因があります」
ガレスは振り返った。
「それを証明できるか」
「調査をさせてもらえれば」
「調査?」
「壁の状態を詳しく測定し、地盤を調べます。そうすれば、原因を特定できます。原因が分かれば、対策も立てられます」
ガレスは、じっと誠司を見つめていた。
「……いいだろう」
彼はついに言った。
「お前に、調査を許可する。ただし、条件がある」
「何でしょう」
「結果を見てから、雇うかどうかを決める。調査で何も分からなければ、お前には報酬は払わない。分かったな」
「分かりました」
誠司は立ち上がり、ガレスに一礼した。
「ありがとうございます。必ず、原因を突き止めます」
「期待しているぞ」
ガレスの声には、まだ疑念が残っていた。しかし、それでいい。結果を出せば、疑念は信頼に変わる。それは、誠司が現場で何度も経験してきたことだった。
*
翌日から、誠司は城壁の調査を開始した。
まず必要なのは、傾きの正確な測定だ。どの部分がどれだけ傾いているか、数値で把握しなければならない。
しかし、この世界には測量機器がない。トランシットもレベルもない。目測に頼るしかなかった。
誠司は、まず紐と重りを調達した。糸の先に小石を結び付けた、原始的な下げ振りだ。これを壁に当てれば、垂直線からのずれを測ることができる。
次に、長い棒を調達した。これを壁に当て、下げ振りと比較することで、傾きの角度を推定できる。
精度は低いが、ないよりはましだ。
誠司は城壁に沿って歩き、十歩ごとに測定を行った。傾きの値を、地面に小枝で書き留めていく。紙がないので、記録は全て暗記と、その場でのメモに頼るしかなかった。
測定を進めるうちに、パターンが見えてきた。
傾きがひどい部分は、特定の区間に集中している。その区間は、城壁の北東部に位置していた。
なぜその区間だけが、特にひどく傾いているのか。
誠司は、その区間の周辺を注意深く観察した。
そして、気づいた。
「水だ」
城壁の外側、その区間の近くに、小さな窪地があった。雨水が溜まりやすい地形だ。そして、その窪地から城壁に向かって、かすかな水の流れの痕跡がある。
おそらく、雨が降るたびに水がここに溜まり、地下に浸透している。その水が、城壁の基礎の下の土を洗い流し、空洞を作り出している。その結果、基礎が沈下し、壁が傾いている。
「排水不良による基礎の洗掘か」
誠司は呟いた。
原因が分かれば、対策は立てられる。
まず、水の流れを変える。窪地に溜まった水が城壁に近づかないよう、排水路を作る。
次に、既に空洞ができている部分を埋める。地盤改良工事だ。この世界の技術でできるかどうかは分からないが、方法がないわけではない。
最後に、壁自体を補強する。傾いた壁を完全に垂直に戻すのは難しいが、これ以上傾かないように支える方法はある。
誠司は、調査結果を頭の中でまとめながら、ガレスのもとに戻った。
*
「排水の問題だと言うのか」
ガレスは、誠司の報告を聞いて眉をひそめた。
「はい。城壁の北東部、特に傾きがひどい区間の外側に、水が溜まりやすい窪地があります。雨水がそこに集まり、地下に浸透して、基礎の下の土を洗い流しています。その結果、基礎が沈下し、壁が傾いています」
「呪いではないと?」
「呪いではありません。純粋に、水と土の問題です」
ガレスは、しばらく考え込むような顔をしていた。
「……修理は可能なのか」
「可能です。三つの工程が必要です」
誠司は、指を一本立てた。
「第一に、排水路の設置。窪地に溜まった水を、城壁から離れた場所に流すための溝を掘ります。これで、今後の被害を防げます」
二本目の指を立てる。
「第二に、地盤の補強。既に空洞ができている部分に、砕石や砂を詰めて固めます。これで、これ以上の沈下を止められます」
三本目の指を立てる。
「第三に、壁の補強。傾いた壁を支えるための控え壁を設置します。完全に垂直に戻すことはできませんが、崩壊を防ぐことはできます」
ガレスは、誠司の説明を黙って聞いていた。
「それで、費用と工期は」
「詳しい計算には、この国の物価と職人の賃金を知る必要があります。しかし、概算で言えば——」
誠司は、頭の中で計算した。日本の基準で考えると意味がないので、この世界の一般的な建築工事と比較して考える必要があった。
「城壁全体を新築するよりは、はるかに安く済むはずです。おそらく、新築の十分の一以下でしょう」
「工期は」
「第一工程の排水路は、職人が五人いれば、一週間で完了します。第二工程の地盤補強は、二週間。第三工程の壁補強は、傾きの程度によりますが、一ヶ月から二ヶ月。全体で、二ヶ月から三ヶ月といったところでしょう」
ガレスの目が、わずかに見開かれた。
「そんなに早くできるのか」
「はい。ただし、条件があります」
「条件?」
「職人を、私に預けてください。私が計画を立て、段取りを組み、指示を出します。職人たちには、私の言う通りに動いてもらいます」
「それは——」
ガレスは言いよどんだ。
「この街の職人には、それぞれ棟梁がいる。お前の言う通りにしろと言っても、彼らが納得するかどうか」
「説得します」
誠司は、きっぱりと言った。
「私のやり方を見せれば、彼らも分かってくれるはずです。結果を出せば、信頼は後からついてきます」
ガレスは、長い時間、誠司を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「分かった。お前に任せる」
「ありがとうございます」
「ただし」ガレスの声が、鋭くなった。「失敗したら、お前の責任だ。この街から追い出すだけでは済まさんぞ」
「承知しています」
誠司は立ち上がり、一礼した。
「明日から、工事を開始します。まず、職人を集めてください。私が、彼らに説明します」
「分かった」
誠司は部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼は自分の手のひらを見つめた。
震えている。
緊張しているのだ。当然だ。異世界に来て、まだ二日目。この世界のことは、ほとんど分かっていない。それなのに、城壁の修復という大きな仕事を引き受けてしまった。
しかし、後悔はなかった。
これが、自分にできることだ。
この世界で生き残るために。そして、この世界を救うという、女神の依頼に応えるために。
まずは、目の前の仕事から始める。
一歩一歩、確実に。
それが、現場監督のやり方だった。
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