第10話 帆桁を落とせ!
槍の影が、時貞の背いっぱいに広がった。
避ければ櫛が行く。掴めば背が裂ける。——その二つの間で、時貞は瞬きすら忘れ、ただ螺鈿の冷たさを握り締めた。
「姉上……!」
声にならない声が喉で擦れた、その瞬間。
風が割れた。
剛守が時貞の上へ滑り込む。揺れる甲板を踏み台に変え、槍の軌道へ体ごと噛ませる。
太刀が閃き、穂先を叩き落とす——が、槍は海の鉄を噛んだように硬い。刃が食い込み、嫌な震えが腕へ跳ね返った。
落ちた穂先は跳ね、方向を変え、時貞の肩口をかすめる。血が細く飛んだ。
「っ……!」
痛みより先に、櫛を落としかけた指が震える。時貞は歯を食いしばり、指先に力を戻した。落とすわけにはいかない。
姉上を——ここで失うわけにはいかない。
剛守は時貞の前に片膝をつき、背中で庇う形のまま槍の柄を掴んで引き寄せた。鮫男が体勢を立て直そうとする。
次の瞬間、剛守の肘が鮫男の胸へ叩き込まれ、甲板が鳴る。
「触るな」
低い声。怒鳴りではない。氷の底の音だ。鮫男が槍を引く。引かれた勢いで剛守の肩口が裂けた。血が海水に混じって黒く伸びる。
時貞の胸が跳ねた。「剛守!」
「黙ってろ。——櫛、落とすな」
剛守は立ち上がる。負傷をかばわない。むしろ痛みを重心に沈め、揺れの“返り”に合わせて踏み込む。
太刀が走り、槍の柄の根を断ち、次の一打が肘を落とし、跳ぶための腰を折る。鮫男の体が崩れた瞬間、剛守はそれを蹴って海へ返した。泡が弾ける。
「荷が崩れるぞ!」
船頭の声が割れる。「縄を締めろ! 樽を押さえろ!」
這い出してきた船乗りが、震える手で縄に縋りつく。荷の転がりが止まり、甲板の揺れがわずかに落ち着いた。
その一瞬で、時貞は櫛を胸へ押し当てた。血で濡れた袖の下で、螺鈿の冷たさが確かに残る。
——落ちていない。それだけで、息が戻る。
だが海面の影は尽きない。鮫男は次々に跳び、狙いを変えず、帆柱の根元や舵の近くへ集まる。時貞の頭の中には、その動きが勝手に焼き付いていく。
「剛守! 奴ら——帆柱の根元を狙ってる!」
剛守の目が一瞬だけ細くなった。戦場で培った感性が、その言葉を受け取って形にする。剛守は海面を見、船の揺れを感じ、次に、上を見上げた。
帆柱の高いところで、横木——帆桁が唸っている。太い木。落ちれば、人も化け物も潰れる重さ。剛守は叫んだ。
「船頭! あの横木、落とせるか!」
船頭が目を剥く。「帆桁を落とすだと!? 帆が——」
「沈むよりましだ!」剛守が太刀で鮫男を叩き伏せながら吼える。「落とせるなら準備しろ! 合図で落とせ!」
船頭は一瞬だけ迷い、すぐ怒鳴り返した。
「上の綱だ! 上の綱を押さえろ! 勝手に緩めるな、合図まで待て!」
男たちが帆柱へ群がり、滑車の綱へ取りつく。縄がきしみ、木がうなる。鮫男はそれでも跳ぶ。跳んでくる。だが今、剛守の目には、恐怖ではなく“刈り取る場所”が見えていた。
剛守は時貞の横へ半歩寄り、息だけで言う。
「櫛、無事か」
「……無事だ」
「なら、離れるな。合図の時、頭を伏せろ」
時貞は櫛を胸に押し当て、頷いた。「分かった」
剛守が前へ出る。血を垂らしながら、鮫男の群れを、帆柱の根元へ誘い込むように立ち位置をずらす。太刀が閃き、敵の足を止め、跳躍の線を曲げる。鮫男たちは“そこ”へ集まる。集まってしまう。
時貞は帆柱を見上げた。縄が張り詰め、木が今にも落ちそうに震えている。
次の波が来る。次の“返り”が来る。次の跳躍が来る。
剛守の合図が、来る。
<次回予告>
帆桁が落ち、海水と血と木屑が霧になる。統率は崩れ、影は散った。耳が痺れる轟音の中、時貞は胸の櫛を確かめる——この記憶は、鎌倉へ戻る鎖ではなく、姉へ続く杭になる。
次回「海は牙を持っている」に、ご期待ください。
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