第9話 絶対絶命の淵

 船は、揺れの質を変えた。波が横から叩くたび、甲板がわずかに“遅れて”沈み、次の瞬間に跳ね返る。木が軋む音が、骨の中まで響く。

 鮫男の跳躍は、その遅れと跳ね返りの隙を正確に突いていた。——甲板の上が、奴らにとっての狩場になるように。

 剛守はその中心に立ち、太刀で“場”を押し戻していた。斬って、受けて、折って、投げ返す。

 海水が刃に散り、白い霧になって舞う。だが数が尽きない。

 波の下にいる影が、まだ何重にも控えているのが、時貞の耳には分かる。擦れる音が、消えない。


 「時貞! 離れるな!」


 剛守の声が飛ぶ。時貞は帆綱を握り、足を板に刺すように踏ん張った。だが次の瞬間、船が大きくのけぞった。荷が転がり、縄が弾け、誰かが甲板を滑っていく。

 時貞の肩に樽の角がかすめ、息が詰まった。


 ——その拍子だった。


 胸の内側で、ずしりとした重みが浮く。布越しの冷たさが、ひどく軽くなった気がした。

 嫌な予感に手をやったときには遅い。懐の口が揺れで開き、包みがほどけ、螺鈿の櫛が——

 甲板へ転がり落ちた。濡れた板の上を、櫛は驚くほど速く走った。

 灯のない薄明の中でも、螺鈿が一瞬だけ光を噛む。まるで、姉上が笑ったときの目の光と同じ角度で。


 「……姉上!」


 声が漏れた。呼ぶべき名を、時貞は飲み込めなかった。櫛は物ではない。

 けれど、二人が「茜自身」として扱う唯一の形だ。失えば、連れていくという誓いが、手の中から抜け落ちる。

 抜け落ちた瞬間、今まで踏みとどまってきた全てが、海へ流される。

 時貞は駆けようとして、駆けられないと悟る。船が傾く。足を離した瞬間、転び、滑り、海へ吸われる。だから、這う。

 甲板に両手をつき、腹を擦りながら、櫛へ向かって伸びる。濡れた板が冷たく、掌に木屑が刺さる。

 痛みは遠い。天分強記が、余計なものを全部拾う。潮の味、板のささくれ、遠くで剛守が太刀を振るう風の音——そのすべてが、櫛へ向かう指先の距離を、残酷に刻む。

 櫛まで、あと一尺。

 そのとき、甲板がまた跳ねた。波が船腹を叩き、板が浮き、時貞の体がわずかに滑る。伸ばした指が空を切る。櫛が、さらに転がる。


 「やめろ……!」


 声にならない。祈りでも命令でもない。ただ、失いたくないという生理の叫びだけが喉の奥で鳴る。背後で、剛守の怒号が混じった。


 「時貞! 戻れ!」


 戻れない。戻れば櫛が行く。櫛が行けば姉上が行く。——行かせない。

 時貞はもう一度、板に爪を立てるようにして前へ進んだ。指先が、ついに螺鈿の縁に触れる。冷たい。硬い。確かだ。

 掴む——

 その瞬間、時貞の背筋が凍った。

 甲板の影が、一本、伸びてきた。細く長い影。槍だ。水を切って跳んできた鮫男が、時貞の背へ穂先を向けている。

 呼吸の気配がない。ためらいもない。槍は、狙いを外さない角度で落ちてくる。

 時貞の視界には、櫛しかない。掴めば背が裂ける。避ければ櫛が滑る。

 どちらを選んでも、何かが終わる。

 ——絶対絶命の破滅の淵。

 時貞は櫛を握りしめ、身を縮めた。槍の影が、背中いっぱいに広がった。


 <次回予告>

 影は尽きない。時貞は動きの“狙い”を読み取り叫ぶ——帆柱の根元だ。船頭は迷い、男たちは綱へ群がる。合図まで待て。次の波で、落ちるのは帆桁か命か。

 次回「帆桁を落とせ!」に、ご期待ください。


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