第8話 海中の影、鮫男襲来

 夜明け前、博多の波止を離れた船は、潮の色を変えながら沖へ滑っていった。甲板にはまだ陸の匂いが残っている。

 濡れた縄、木樽の酸、干し魚の脂。風が強まるにつれて、それらは塩気に薄められ、代わりに海そのものの冷たさが肌を叩いた。

 時貞と剛守は「雇われ」として、荷の間を縫うように動いていた。剛守は帆綱の癖を覚えるのが早く、手がかじかむ前に結び目を作り直していく。

 時貞は樽の数と印を目で追い、どの荷がどの倉へ戻るかまで頭の中で並べていた。 

 一度ものは抜けない。だからこそ、船の癖も、乗り組みの顔も、風向きの変わり目も、忘れないまま積み上がっていく。


 「……海ってのは、空が近いな」


 剛守が呟く。遠くの水平線が薄く白み、波の背が銀色に尖っていた。

 時貞は胸の内側に指を当てる。布越しの硬さ。螺鈿の櫛。

 姉上を連れてきた証拠が、揺れに合わせて確かにそこにある。


 「姉上が見たかったのは、こういう色かもしれないな」


 言ってから、喉が少しだけ痛む。姉上はもう、甲板の上に立てない。だが——連れている。そう思い込むことで、足元の揺れに踏みとどまれる。

 船は沖へ出た。港の声が消え、船底が波を割る音だけが支配する。舳先が上下し、木が軋み、帆が鳴る。

 乗り組みの者たちが笑い、怒鳴り、唾を吐く。いつもの海だ、とでも言いたげに。

 だが、時貞の耳は、いつもの音の“隙間”を拾った。


 ——水の中で、何かが擦れる。木でも貝でもない。硬いものが、硬いものを撫でる音。


 「剛守」


 名を呼んだ瞬間、剛守の背が反応した。視線が海面へ落ち、次に、帆柱の影へ走る。


 「聞こえたか」

 「……ああ。嫌な音だ」

 次の瞬間、見張りが叫んだ。「海だ! 海中に影——!」


 影は一つではなかった。波の下に、細長い影が群れをなして走っている。魚の群れのような規則正しさではない。

 狙いがある。船腹に沿って、距離を測り、速度を合わせてくる。甲板の空気が凍った。船頭が怒鳴る。


 「櫂を動かせ! 舵を切れ! 近づけるな!」


 だが海は広く、船は重い。帆が風をつかんだまま、船腹は大きく身を晒している。逃げ切るには時間が足りない。


 海面が割れた。


 最初の一体は、人の形をしていた。だが肌は濡れた灰色で、首の横には鰓の裂け目。目は黒く、瞬きがない。腕は長く、指の間に薄い膜が張る。

 腰から下は、魚のようにしなり、尾の一撃で海面を叩いて甲板へ跳躍した。


 「……鮫男(さめびと)」


 誰かが呻いた。言葉が“知っている恐怖”として甲板を走る。伝承ではない。噂話でもない。目の前の現実だ。

 鮫男は槍を持っていた。木柄に黒い穂先。海水を滴らせながら、迷いなく船頭へ向けて踏み込む。


 「下がれ!」


 剛守が割り込んだ。鞘ごと抜いた太刀が、風を裂く——その一歩が、甲板の空気を変えた。

 剛守の体は揺れる船に合わせて“揺れない”。重心が船と同じ呼吸をし、踏み込みの瞬間だけ、波の揺さぶりを噛み殺す。


 天武無双。


 鎌倉の武士たちは、剛守の武を「天が与えた武の力、並ぶものなし」と称えたという。

 戦場に立てば、敵の刃より先に空気が折れ、味方の背は起き、相手の膝はわずかに沈む——その場の理が、剛守の一歩で塗り替わるからだ。

 一閃。太刀が槍の穂先を弾き、続く二閃が鮫男の肩口を裂く。

 だが血の色は薄い。痛みの反応が遅い。剛守は眉一つ動かさず、刃を立てずに“骨”を狙った。

 関節、腱、首の付け根。生き物が動けなくなる場所だけを、確実に断つ。

 鮫男が倒れる前に、剛守はもう次へ向いていた。

 海が続けて割れる。

 二体、三体、四体。海中から甲板へ、跳躍、着地、突進。間合いを取らせない。船の揺れに合わせ、体を低く保ち、滑るように槍を繰り出してくる。


 「来い」


 剛守が言った。挑発ではない。号令でもない。——宣告だ。

 鮫男が二体同時に襲う。右から穂先、左から薙ぎ。剛守は後ろへ退かない。船が沈む方向へ、敢えて一歩踏み込み、槍の軌道を“短く”させる。

 刃が閃き、右の穂先が落ち、左の手首が飛ぶ。鮫男が呻く前に、剛守の肘が顎を砕き、体が板に叩きつけられる。

 時貞は息を呑んだ。剛守の強さは、ただ斬る速さではない。甲板という不安定な場で、敵の勢いを奪い、味方の退路を作り、戦場の形そのものを作り替える。

 その動きが、まるで最初から決められていた型のように無駄がない。

 だが、敵の数が減らない。倒れた鮫男の隙間を、新たな鮫男が埋める。まるで、船そのものを“陸”に変えて踏み台にするかのように。


 「荷が崩れるぞ!」

 船頭の声が割れる。「縄を締めろ! 樽を押さえろ!」


 甲板が傾く。積荷の樽が転がり、縄が弾け、悲鳴が上がった。鮫男は、その揺れを“合図”にして跳ぶ。帆柱の根元へ、船腹へ、舵へ——沈めるための位置を知っている。


 「剛守、後ろ!」


 時貞の叫びに、剛守は半身を返す。背後から来た槍を太刀の峰で受け流し、そのまま柄尻で突いて相手の喉を潰す。

 受け流した反動で船がさらに傾く——が、剛守は傾きに逆らわない。

 傾きに身を預け、その“落下”の力で斬る。刃が重くなる。重い刃は、硬い肉を割る。


 「硬いなら——割るだけだ」


 剛守が低く吐き捨て、踏み込みを変えた。太刀の角度が変わる。

 横ではなく、斜め下へ。鱗の継ぎ目、肋、股関節。人体と同じく“折れる”ところを選び、板に縫い付けるように止めていく。

 鮫男が動けなくなる。動けなくなれば、跳べない。跳べなければ、数は“海に残る”。

 剛守は倒れた敵の体を、次の敵の跳躍線へ蹴り込んだ。踏み台にされる前に、こちらの楯に変える。

 槍が刺さり、鮫男同士が絡む。絡んだ瞬間を、剛守が断つ。太刀が走るたび、海水が霧になり、朝の微光に白く散った。

 時貞は甲板の縁へ追い詰められかけ、咄嗟に帆綱を掴んだ。指が縄に食い込み、痛みが走る。胸の内側で、櫛がずしりと揺れた。


 ——落とすな。


 姉上は物ではない。だが、この櫛がなくなれば、姉上を連れているという“形”が崩れる。崩れた瞬間、自分の決意まで海へ流される気がした。


 「時貞! 波を見ろ!」


 剛守の声が飛ぶ。剛守は戦いながら、波の“呼吸”を読んでいる。鮫男が跳ぶ瞬間を、波の盛り上がりで掴んでいる。

 時貞も目を凝らした。海面の泡、影の移動、跳躍の起点。——来る。

 右舷から二体、ほぼ同時。少し遅れて左舷に一体。狙いは帆柱の根元。船を揺らし、荷を崩し、混乱を増幅させるつもりだ。


 「……こいつら、船を沈める気だ」

 「沈めさせるかよ」


 剛守は笑った。笑いは余裕ではない。恐怖を噛み砕く歯の音だ。


 「茜様と見に行くんだろ。なら、ここで終われねえ」


 次の跳躍。剛守は走らない。走れば揺れに取られる。代わりに、帆柱へ向けて“角度”だけを変え、踏み込みを一つに絞った。

 鮫男が甲板へ乗る瞬間、太刀が閃く。首の根が裂け、体が空中で力を失う。落ちた体を、剛守は蹴り返し、海へ投げ戻した。

 海が受け取る前に、もう一体が跳ぶ。剛守は柄で受け、刃で払う。払った勢いのまま、相手の槍を掴み、ねじって折った。折れた瞬間、鮫男の腕が抜け落ちる。

 骨が外れる音がした。剛守の周囲だけ、敵が近づけなくなっていく。

 近づけば斬られる、だけではない。近づけば“足場を失う”。そこには、人の戦い方ではなく、海の獣を狩るやり方があった。

 それでも、海面の影は尽きない。船はまだ揺れ、帆は鳴り、縄は軋む。

 時貞は懐の櫛を押さえ、剛守の背を見た。あの背が、今は船の柱だ。姉上を連れていくための、一本の柱。

 試練は、終わらない。だが——折れない。


 <次回予告>

 櫛を握れば背が裂ける。避ければ姉の光が滑り落ちる。選べない一瞬、鮫男の槍が落ちてくる。剛守は間に合うのか——潮の匂いが答えを隠す。

 次回「絶対絶命の淵」に、ご期待ください。


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