第7話 夜明け前、荷に紛れろ
夜の騒ぎが嘘のように、屋敷の奥は静まっていた。松明の煤の匂いがまだ門口に残り、潮気を含んだ風が板塀を撫でていく。
客間の灯の下、時貞は袖の内の汗を乾かしながら、墨の匂いを思い出さぬように息を整えた。剛守は柱にもたれ、腕を組んだまま目だけで周囲を見張っている。
やがて襖が開き、謝国明が入ってきた。夜半と変わらぬ丁寧な足取りで、二人の前に座すと、深く一礼した。
「……改めまして、今宵は誠にありがとうございました。お二人のおかげで、当家は面目も商いも守れました」
時貞は小さく首を振る。「守れたのは、あんたの家が“守る価値”を持ってたからだ」
剛守が口を挟む。「礼はいい。で、次はどうする。あいつら、また来るぞ」
謝国明はうなずき、目を細めた。
「左様。ゆえに——今夜のような綱渡りは、長くは続きませぬ。……ですが」
そこで、謝国明は時貞をまっすぐ見た。
「さすが<天分強記>と呼ばれているお方でございますな」
その言葉が、時貞の胸の内に刺さる。才を呼ばれて嬉しいはずがない。忘れたいものまで、忘れられないのだから。謝国明は続けた。
「実は、最初から分かっておりました。夜半の一芝居も、お方なら成し得る、と。——そして騒動を納めてくださったこと、重ねて礼を申し上げます」
剛守が眉を上げる。「最初から、って……何をだ」
「お二人が、ただの旅人ではないことを、でございます」謝国明は声を崩さない。
「港の目は粗いようで鋭い。ましてこの頃は、噂に銭が絡みます。大宰府の者どもが動くのも早い」
時貞は、懐の櫛の冷たさを指先で確かめた。姉上を連れている。その一点だけが、自分の立つ場所を決めている。謝国明は、間を置いて尋ねた。
「改めて伺います。お二人は、博多まで何をしに来られたのでございますか」
剛守が言いかけるのを、時貞が目で止めた。ここで余計な真実を並べれば、相手の手札を増やすだけだ。だが、黙れば関係が切れる。時貞は、半分の真実を選んだ。
「大陸に渡りたい」
謝国明は目を伏せ、短く息を吐いた。驚きではない。確認の息だ。
「……やはり。では、渡った先で何を求められますか。宋の都か、商いか、それとも——」
時貞は一拍だけ置いた。「“世界の果て”の噂を追う」
剛守が、静かに添える。「茜様と見に行くためだ」
「茜様……」謝国明は、その敬称を崩さずに繰り返した。
「亡き御方の願いでございますか」
時貞は答えない。答えれば喉が割れる。代わりに、胸を押さえた。そこにいる、と示すように。謝国明は、しばし沈黙した後、言った。
「承りました。……お二人を、大陸に渡るための貿易船にお乗せいたしましょう」
剛守の目が鋭くなる。「……ほんとか」
「虚言で港を危うくはいたしませぬ」謝国明は淡々と続ける。
「ただし条件がございます。船は私の名で出ます。お二人は“雇われ”として荷に紛れ、余計な口は利かぬこと。港では目立たぬこと。もし船上で揉め事が起きても、まずは私の指図に従うこと」
剛守が舌打ちしかけ、時貞が先に言う。「条件は吞む」
謝国明は頷いた。
「出帆は近うございます。夜明け前に動きます。——海は人のものだけではございません。今宵のように、噂や権力だけが牙を持つわけではない。港の者が口を噤むのには、理由がございます」
その言い方は、忠告というより予告だった。時貞の背に、冷たいものが這う。剛守は逆に、肩を鳴らした。
「なら、なおさら行く。俺が守る」
謝国明は、剛守の言葉を否定せず、ただ丁寧に言った。
「心強うございます。ですが、海の理は陸とは異なります。——備えだけは、怠りなさるな」
時貞は、懐の櫛をそっと押さえた。姉上。ようやく、裂け目が“道”になる。ここから先は、もう戻れない。
「……ありがとう」と、時貞は小さく言った。礼というより、契約の確認として。
謝国明は一礼で返した。
「礼は不要でございます。利もまた、こちらにございますゆえ。——では、今宵はお休みくださいませ。夜明けは早い」
襖が閉まると、屋敷の静けさが戻った。剛守が低く言う。
「やっと船だな」
時貞は頷いた。「ここからが始まりだ。姉上を、海の向こうへ連れていく」
灯が揺れ、螺鈿の冷たさが胸の奥で小さく光った気がした。
<次回予告>
夜明け前の出帆。荷に紛れる二人の耳が“水の擦れる音”を拾う。次の瞬間、海面が割れ、槍を持つ鮫男(さめびと)が甲板へ——港が黙った理由が、牙をむく。
次回「海中の影、鮫男襲来」に、ご期待ください。
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