第6話 偽りの書付、真の刃
夜更け、謝家の屋敷は静まり返っていた。潮の匂いも、この塀の内側では薄まって、代わりに乾いた紙と墨、煮炊きの残り香が空気に残る。
時貞は与えられた客間で膝を抱え、布越しに懐の櫛の冷たさを確かめていた。姉上を連れている——その実感だけが、眠りを遠ざける。
そのとき、表門の方で、乾いた音が三つ鳴った。戸を叩く音。続けて、男の声が響く。
「大宰府の使者である。開けよ」
屋敷の気配が一斉に変わった。走る足、抑えた声、戸の軋み。謝太郎が青い顔で客間へ飛び込んでくる。
「お二人とも……申し訳ございません。表に、大宰府の使者を名乗る者どもが参りました。『鎌倉からいなくなった者を匿っているとの報告がある。屋敷の中を改めたい』と……」
「嗅ぎつけたか」剛守が立ち上がる。
時貞の胸に、嫌な冷えが走った。鎌倉を出た瞬間から、追手は“いつか来る”と思っていた。だが、来るのが早い。ここは海の町で、噂は潮より早い。
襖が開き、謝国明が入ってきた。声音は落ち着いているが、目は鋭い。
「お二人とも、裏口からお逃げくださいませ。今夜は風向きが悪い。屋敷を改められれば、港どころか大宰府にまで話が回りましょう」
剛守が拳を握る。「逃げるだけじゃ、また来る」
謝国明は頷いた。「左様。……ですが、ここで刃傷沙汰になさるのは最悪でございます。港の“耳”が喜びます」
時貞は、表門の声を聞きながら、妙に落ち着いていた。恐ろしいのは、追手ではない。自分の中で、鎌倉の書付の文言が、勝手に立ち上がってくることだ。
評定所の畳の感触、紙の匂い、朱印の位置、花押の癖——忘れたくても忘れられない記憶が、今夜のために積み上がっていた。
「……逃げるわけには、いかない」
剛守が振り向く。「正気か」
時貞は息を吐く。「逃げたら“匿ってる”が真になる。ここで、違う形を見せる」
謝国明の眉がわずかに動いた。「違う形、とは」
時貞は視線を上げる。「書類を作る。幕府の使者として、こっちが改める側になる」
謝太郎が息を呑んだ。「そんな……」
時貞は言い切った。「俺は引付衆だった。見た書付の形は、頭に残ってる」
剛守が低く笑う。「お前の“忘れねえ”が、ここで役に立つってわけか」
時貞は笑わない。役に立つのは事実だが、同時に、鎌倉へ引き戻される苦さもある。姉上の最期の部屋の匂いまで残っているのと同じように、あの乾いた政の匂いも、今なお鮮明だ。
「紙と墨を貸してくれ。できれば、少し上等な紙を」
謝国明は迷いを見せなかった。「こちらへどうぞ。……太郎、灯をもう一つ。人払いも」
奥の小部屋へ通される。机の上には、厚手の紙束、硯、筆、朱の顔料まで揃っていた。商人の家は、書付が命だ。時貞はありがたさを言葉にせず、筆を取った。
まず、書き出しの型を作る。肩書きは誇張しない。誇張は突かれる。
だが弱すぎても押し返される。時貞は、鎌倉で見た“使者の文言”を、頭の中からそのまま引き抜くように整える。
文字の間、改行、言い回し。自分の字が滲まぬよう、わざと筆圧を変え、別人の癖を装う。気づけば、手が勝手に動いていた。
「博多・大宰府視察のため、関東より下向。港湾の往来につき、無用の混乱を禁ず。私宅改め、これを慎むべし」
硬い言い回しの一つひとつが、時貞の喉を削った。こんな言葉で、何人が泣いた。
こんな紙切れで、何人が縛られた。姉上の命を守れなかった“秩序”の匂いが、墨に混じる。それでも、今は必要だ。
最後に、印が要る。だが本物はない。時貞は朱の顔料を少量溶き、紙片を折って、簡単な陰影と欠けを作る。完璧を狙わない。
完璧は疑われる。どこか“急ごしらえの本物らしさ”が必要だ。
剛守が腕を組み、背後から覗き込む。「……お前、怖えな」
「黙ってろ。息が乱れる」
「はいはい」
謝国明が小さく息を吐いた。「……間に合いますか」
時貞は筆を置いた。「行ける。あとは俺の口が噛まずに回るかだ」
表では、使者の声が苛立ちを帯びてきていた。「開けよ! 鎌倉の逃げ者を匿っていると聞く!」
時貞は立ち上がり、紙を袖に納めた。懐の櫛の重みが、背を押す。姉上。見に行くと言った。なら、ここで折れるわけにはいかない。
表門が開く。夜気と潮の匂いが流れ込み、松明の火が揺れた。立っていたのは、粗い鎧姿の男たち数名。先頭の男が一歩出る。
「改める。どけ」
謝国明が丁寧に一礼する。「夜半のご足労、痛み入ります。ですが当家は——」
「問答無用だ。鎌倉から逃げた者を匿っていると——」
「その“鎌倉”の名を、軽々しく振りかざすな」
時貞が前へ出た。声の調子を変える。鎌倉で、上役が下役を制するときの、あの淡い冷たさ。覚えてしまっている声音だ。
男が睨む。「誰だ」時貞は袖から書付を出し、松明の火に晒した。
「関東より下向した使者だ。博多・大宰府の視察に来ている。——そちらが“改める”と言ったな。ならば、この文言を読め」
男は一瞬たじろいだ。書付に目を落とす。火が揺れて文字が踊る。その揺れが、疑いを遅らせる。時貞は畳みかけた。
「私宅改めは、無用の混乱を招く。港の商いを乱せば、責めは誰が負う。大宰府か? お前か?」
「な、何を——」
時貞はさらに一歩詰める。剛守が半歩遅れて背に立つ。言葉ではなく影で圧をかける。
「書付に不審があるなら、今ここで押収して持ち帰れ。だが、その場合は“関東の使者”を足止めしたことになる。責任は、上へ届く。……届いてよいのか?」
男の喉が鳴った。後ろの者が小声で囁く。「……やめておけ。話が大きくなる」
使者の目が、謝国明と時貞を行き来する。疑いは残る。だが、確信には至らない。確信に至るには、ここで踏み込んで“事件”にしなければならない。踏み込めば、責任が発生する。責任を負いたい下っ端はいない。
男は歯噛みし、書付を返すように突き返した。
「……今夜は引く。だが、怪しい動きがあれば——」
時貞は受け取らず、謝国明に目で合図する。謝国明が静かに書付を引き取った。
時貞は声を落とし、最後の釘を刺した。
「怪しい動きがあれば、まず“港の耳”を疑え。噂で役目を汚すな」
使者たちは松明を揺らしながら去っていった。闇に足音が消えた瞬間、屋敷の空気がほどける。謝太郎が、息を吐いて膝をついた。
剛守が肩で笑う。「やったな」
時貞は笑えなかった。袖の内側が、汗で湿っている。胸の奥には、鎌倉の墨の匂いが蘇って、苦い。
謝国明が、深く頭を下げた。
「……助かりました。お二人を匿ったことで、当家が潰れるところでございました」
時貞は首を振った。「潰れたら、俺たちも終わる。……利害が一致しただけだ」
謝国明は、その言い方を咎めず、むしろ目を細めた。
「利害で動ける方は、海を渡れます。ですが——」一拍置いて、丁寧に言う。
「今の書付。あれは、ただの偽りではございません。相手の“責めの筋道”を読まねば、あの一芝居は成立しない……さすが、天分強記と呼ばれている方でございますな」
時貞は、懐の櫛を押さえた。姉上の冷たさが、現実へ引き戻してくれる。
「褒め言葉には聞こえない」
謝国明は、わずかに微笑んだ。「この港では、それが最上の褒め言葉でございます」
夜気の向こうで、波の音が小さく続いていた。海はまだ閉じている。だが、いま確かに一枚、障りがどけた。時貞はその感触を、忘れないまま胸に刻んだ。
<次回予告>
謝国明は条件を突きつける。雇われとして荷に紛れ、余計な口は利くな。夜明け前に動け――だが港が黙るのは噂だけが理由じゃない。海の理が、二人の覚悟を試す。
次回「夜明け前、荷に紛れろ」に、ご期待ください。
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