第5話 博多のフィクサー
謝太郎に導かれて辿り着いた屋敷は、港の喧噪から幾重も路地を折れた先にあった。高い板塀が潮風を遮り、門口には乾いた縄が張られ、倉の戸には同じ印の焼き鏝が押してある。
敷地の内側からは、干した薬草の匂いと、煮炊きの湯気、そして紙と墨の匂いが混じって漂ってきた。商いの家だ。金と物と人の流れが、ここで束ねられている。
門を入ると、土間は掃き清められ、荷が置かれる場所と客を迎える場所がきっちり分かれていた。時貞は一歩ごとに、視線の数を数えてしまう。
倉の影、梁の上、障子の向こう。ここは守られている。守る理由がある。
「こちらで少々お待ちくださいませ。すぐに父が参ります」
謝太郎がそう言って頭を下げ、奥へ消えた。やがて、襖が静かに開く。
現れた男は四十を越えた頃合いで、背は高く、身のこなしに無駄がない。濃い眉の下の目は静かに人を量り、髭は短く整えられている。
衣は上等だが色は控えめで、袖口の細い繕いが実直さを語っていた。
男は二人を一瞥し、まず謝太郎に目をやった。
「太郎、怪我はないか」
「はい、父上。ご心配には及びませぬ」
それから男は、時貞と剛守へ向き直る。
「私は謝国明と申します。……息子が世話になりました。まずは礼を申し上げます」
声は低いが澄んでいた。礼は丁寧、しかし腰が低すぎない。相手を立てつつ、主導は渡さない声だ。
——謝国明。博多の唐房を束ねる顔役の一人で、杭州出身の渡来人とも言われている。倭と宋をつなぐ「日宋貿易」の仲介で巨万の富を築いた、表も裏も知り尽くした『博多のフィクサー』と呼ぶにふさわしい男であったが、中国で修行して帰ってきた円爾(えんに)の最大のパトロンで、私財を投じて、承天寺を建てたという一面も持っていた——
時貞は膝を折り、礼を返した。
「時貞だ。助けたというほどのことはない。……だが、恩に着せるつもりもない」
剛守も頭を下げる。「剛守だ。息子さんが無事でよかった」
謝国明は二人の言葉を受け止め、茶も勧めずに切り出した。
「それで。息子から伺いました。お二人は船を探しておられる、と」
謝太郎が控えめに添える。「大陸へ渡るおつもりだと……」
時貞は目を伏せずに答えた。「そうだ。だが、港の口は想像以上に堅い」
謝国明は、ふっと息を吐くように笑った。
「堅いのではございません。口に鎖が掛かっております。役人も武士も、今の博多は“耳”が増えておりますゆえ。渡りたいと申されれば、渡らせぬ理由を探されましょう」
剛守が短く言う。「俺たちは揉め事を起こす気はない。ただ、渡る道が欲しい」
謝国明は答えた。「道はございます。……しかし道は、代価を要求いたします」「名か、金か、働きか。あるいは、命の覚悟でございます」
時貞は胸の内側の重みを思った。布越しに、螺鈿の冷たさがある。
姉上を連れてきた。そのためなら、代価は払える。だが、払う相手を誤れば、海に沈む。謝国明の目が、まっすぐに刺さる。
「どこまで行かれますか」
問いは行き先を訊いているようで、心底を量っていた。
時貞は一拍だけ置き、言葉を選んだ。「宋へ。……その先も、探す」
謝国明の目が細くなる。「まさか……大秦でございますか」
その呼び名が出た瞬間、時貞の脳裏に、灯の消えぬ石の都が立ち上がった。宋の書では“大秦”と記され、さらに西では別の古い名残で語られるとも聞く。
名が変わっても、指している影は同じ——そう思えるほど、言葉だけが輪郭を持って迫ってくる。
剛守が息をのむ。時貞は頷くしかなかった。謝国明は頷き返したが、すぐに首を振った。
「宋へ渡る船は出ます。ですが大秦へは、この海の先に直の道はございません。宋の港へ入ってからも、さらに先は陸の道、砂の道、人の道でございます。——それでも行かれるなら、まず宋へ渡りなさいませ。そこが始まりでございます」
「渡らせてくれるのか」 剛守の問いに、謝国明は即答しない。代わりに二人の手、肩、足の置き方を見た。武家の癖が残る。逃亡者の匂いも、かすかにある。
「……お二人は、追われておられますな」
時貞の喉がわずかに鳴った。否定は嘘になる。肯定は縄になる。謝国明は続けた。
「否定も肯定も不要でございます。私が欲しいのは確かさです。お二人が港へ災いを持ち込まぬ確かさ。私の倉と船に、役人の手を引き寄せぬ確かさでございます」
謝太郎が、少し身を乗り出す。「父上、命の恩が——」
「恩で商いはできぬ」謝国明は叱らずに遮った。
「されど、恩は返せる形に変えられる」
謝国明は二人へ戻る。
「今夜はこちらへお泊まりください。食事も出します。明け方、港の裏へお連れいたします。私の荷に紛れて、倭人の目立つ姿を消しましょう。」
「その代わり、お二人は“雇われ”でございます。荷を運び、口を閉じ、合図があるまで顔を上げてはなりません。もし途中で怖気づかれたら、その場でお引き返しください。海は、迷いを食います」
剛守が時貞を見る。どうする、という目だ。
時貞は、布の上から櫛を押さえた。姉上、と胸の内で呼ぶ。返事はない。だが、冷たさが答えだ。
「……分かった。雇われでいい。渡る」
謝国明は、初めてわずかに笑った。
「よろしい。では契りは成立でございます。——太郎、倉の裏を空けなさい。役人の目に触れぬように」
謝太郎が深く頭を下げる。「承りました。お二人も、どうぞこちらへ」
座敷の外で、海の匂いが少し強まった。潮は変わらない。けれど、閉じて見えた海に、細い裂け目ができた。
そこへ身を滑らせるのは、運ではない。覚悟だ。時貞はそれを、畳の感触で確かめるように、ゆっくり息を吐いた。
<次回予告>
大宰府の使者が謝家の門を叩く。「逃げろ」と促す謝国明に、時貞は首を振った。“匿っている”を真にしないため、筆を取る。忘れられない記憶が、今夜は味方になる。
次回「偽りの書付、真の刃」に、ご期待ください。
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