第4話 謝太郎の招き

 博多の朝は、潮の匂いから始まる。湿った風が浜から町へ押し寄せ、干し魚の脂と薪の煙、異国の香の甘さをまとめて運んでくる。

 波止には宋船めいた黒い船腹が並び、荷を担ぐ男たちの掛け声が、板敷きの路地に反響した。絹の端切れが風に翻り、銅銭の鳴る音が、潮騒の間をすり抜けていく。

 聞き慣れぬ舌の響きがあちこちで弾み、時貞の耳は、言葉の形だけを先に拾ってしまう。港町の喧噪は、鎌倉とは質の違う熱を帯びていた。


 ——当時の博多は、鴻臚館の官貿易が衰えたのち、宋商人の私貿易で栄えた港町であった。宋人は「博多綱首」と呼ばれ、居住区(のちに大唐街と呼ばれる)が形成された一方、内陸の大宰府では少弐らが九州支配を担い、港の往来にも監視の目が及んだった——


 時貞と剛守は、波止から一歩離れたところで立ち止まり、港の出入りを眺めた。剛守の肩は旅塵に白く、時貞の袖口は擦り切れている。

 鎌倉を出るときに捨てたはずの身分は、言葉の端や歩き方にまだ残る。人混みに紛れようとしても、海辺の男たちの目は、よそ者をすぐに嗅ぎ当てた。


 「で、船は?」と剛守が低く言う。


 時貞は首を横に振る。「大陸へ渡る話を向こうから出す者がいない。こっちが訊けば、途端に口が重くなる」


 この数日、彼らは宿の主人、荷役、行商、船大工、誰彼構わず当たりをつけた。だが「唐へ」「宋へ」と言いかけた瞬間、相手の眼が変わる。笑みが引きつり、背後を気にし、手で追い払う——まるで、その言葉自体が咎であるかのように。


 「鎌倉の目が届いてる、ってことか」

 「それだけじゃない。ここは、大宰府の縄張りも絡む。揉めごとを嫌うのだろう」


 時貞はそう言いながら、胸の内側をそっと押さえた。布に包んだ螺鈿の櫛が、そこにある。

 姉上を連れてきた。連れてきたのに、海が目の前で閉じている。剛守は歯を噛み、港の方へ顎をしゃくった。


 「力で口を割らせりゃ——」

 「やめろ。ここで荒事を起こしたら、俺たちが“何者か”を宣伝するだけだ」


 剛守は唸ったが、歩みは時貞に合わせた。ふたりは表の大路を避け、倉や店が背中合わせに並ぶ裏へ回る。潮風は弱まり、代わりに、発酵した魚醤の酸味と、濡れた縄の匂いが濃くなる。

 路地は狭い。曲がり角の先に、突然声がぶつかった。


 「おい、謝太郎。逃げるなよ」


 強面が三、四人。壁際に追い詰められているのは、まだ若い男だった。衣は良いが、裾が泥で汚れている。

 顔色は青い。怯えているのに、目だけは折れていない。


 「借りは返すと言ってるだろうが!」

 「口だけなら誰でも言える。お前の親父が『博多の顔』だからって、いつまでも逃げられると思うなよ」


 剛守の足が止まった。肩がわずかに前へ出る。いつでも踏み込める構えだ。

 時貞は、剛守の袖を掴んで引いた。


 「行くぞ。見なかったことにする」

 剛守が振り向く。「このまま放っておくのか」

 「俺たちは今、目立てない。ここで殴れば、喜ぶのは監視してる連中だ」


 だが、路地の端で時貞たちの気配に気づいたのか、強面のひとりが睨みつけてきた。


 「なんだ、お前ら。通りたきゃ、銭を置いてけ」


 時貞は一歩だけ前へ出た。声は低く、穏やかにする。怒りは見せない。怒りは騒ぎを呼ぶ。


 「急ぎの用だ。揉めるつもりはない」

 「揉めない? ここは俺たちの——」


 時貞は、相手の言葉を遮らず、ただ視線を剛守へ流した。説明はそれだけで足りる。剛守は何も言わない。

 ただ、首を鳴らすように肩を回し、手のひらを握って開いた。掌の厚みと腕の太さが、路地の狭さを一層狭く見せる。


 「……こいつ、やる気かよ」


 強面の顔が一瞬でひきつる。喧嘩慣れした目が、剛守の“本気の重さ”を測って、すぐに損得へ傾いた。時貞は淡々と続ける。


 「穏便に済ませたい。道をあけてくれ。——あけないなら、荒事になる。それだけだ」


 剛守が、鼻で短く笑う。笑いというより合図だ。十分だ、と。強面たちは舌打ちし、若い男を突き飛ばすようにして退いた。


 「覚えてろよ、謝太郎。次は逃がさねえ」


 路地に残ったのは、潮の湿り気と、若い男の荒い息だけだった。

 若い男——謝太郎は、着物の埃を払ってから、深く頭を下げた。


 「お助けいただき、誠にありがとうございました。……危うく、面目ないところでした」


 剛守はぶっきらぼうに「礼なんかいい」と言いかけ、時貞に目で止められて口を閉じた。今は余計な関係を増やすな、という合図だ。

 だが謝太郎は引かなかった。目が利く。助けた相手の身なりと、目立たぬように立つ癖から、ただの旅人ではないと見抜いている。


 「差し支えなければ——お二人は、この町に何をお探しにいらしたのでしょうか」


 時貞は即答しない。沈黙が長いほど疑われる。短すぎても嘘に聞こえる。だから、半分だけを真実にする。


 「船を探している」


 謝太郎の眉がわずかに動いた。「……大陸へ、でございますか」

 剛守が口を開きかける。時貞は先に頷いた。「そうだ。だが、見つからない」


 謝太郎は、周囲を一度見回した。路地の角、屋根の影、倉の隙間。誰かの耳があることを前提に、声をさらに落とす。


 「この頃、港はきな臭うございます。大宰府の役人衆が、商いにまで口を出してまいります。よそから来た方が“渡る”などと申されますと、噂はすぐに立ちます」


 時貞の胸の奥が冷えた。やはり監視がある。鎌倉の追手だけではない。ここは、別の権力の関所だ。


 謝太郎は続けた。「されど……命の恩は返したうございます。わたくし、謝太郎と申します。——もしよろしければ、家へお越しくださいませ。ささやかな礼も差し上げたい。加えて、港の話も、できる限りお伝えいたします」


 剛守が時貞を見る。どうする、という目だ。時貞は、姉上の櫛の重みを思う。ここで立ち往生すれば、姉上と交わした“茜様と見に行く”という約束が、潮風に削られるだけだ。


 「……分かった。だが、長居はしない」


 謝太郎は、ようやく肩の力を抜いて微笑んだ。


「十分でございます。こちらへ。表は避けます。——この町は、道にも耳がございますので」


 ふたりは謝太郎の背に続き、博多の裏をさらに深く入っていった。港の喧噪が遠ざかるほど、時貞の鼓動ははっきりしてくる。姉上。海は閉じていない。閉じているように見えるだけだ。開ける鍵は、いま目の前を歩いている。


 <次回予告>

 謝太郎に導かれた屋敷で待つのは、唐房を束ねる謝国明。船を求める二人に告げられたのは「口に鎖」と「代価」。どこまで行くのか――問われ、時貞は“大秦”を口にする。

 次回「博多のフィクサー」に、ご期待ください。


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