第3話 念仏の残響、旅の契約

 葬列が屋敷の門を出てゆき、最後の僧の足音が遠のいても、時貞の耳はまだ念仏の節を拾い続けていた。

 香の煙が畳に落ち、白布を掛けられた姉上の輪郭だけが、瞼の裏でほどけずに残る。

 天分強記は、慈悲がない。忘れろと命じても、記憶は従わない。

 夜。弔いの客が去ったあとの庭は、雨上がりの土の匂いが濃かった。濡れた苔の冷たさが、裸足で立てば骨に染み込むような気さえする。

 時貞は縁側に座り、膝を抱えたまま動けずにいた。泣き声は昼に出し尽くした。

 今は、涙の出ない渇きだけが喉に刺さっている。

 背後で障子がかすかに鳴り、剛守が出てきた。大きな影が縁側に落ちる。

 剛守は何も言わず、時貞の隣に腰を下ろした。沈黙が長く続く。ふたりの間にあるのは、言葉より重い喪失だった。


 「……時貞」


 剛守の声は低い。友としての呼び方だ。けれど、その次に続く言葉だけは、きちんと敬う響きに変わる。


 「茜様のこと、俺も……守れなかった」


 時貞は返さない。返したら、また崩れる。代わりに、視線だけを庭の闇へ投げた。

 闇の奥に、姉上が語っていた“海の向こう”があるような気がした。そんなもの、今の鎌倉から見えるはずもないのに。

 剛守は懐に手を入れ、布に包んだものをそっと取り出した。灯明の残り火を受け、螺鈿の欠片が一瞬だけ波のようにきらめく。


 「……これ」


 時貞の息が止まる。

 姉上の櫛だ。埋められたはずのもの。いや、埋められる直前に——剛守が懐に収めたのを、時貞は見ていた。


 「勝手をした。許されないのは分かってる。でも、茜様を土の下で終わらせたくなかった」


 時貞の指が震えた。怒りが湧くべき場面だ。

 武家の作法からすれば、死者のものを掠め取ったとも言える。だが、怒りより先に、姉上の笑みが胸を刺した。

 櫛の縁をなぞっていた指先。あの光景が、天分強記で鮮やかに蘇ってしまう。


 「……姉上は、これを……」


 言いかけて、言葉が折れた。姉上はこれを愛し、そして世界の果てを夢見た。

 その二つが、時貞の中で絡まり合う。

 剛守は、包みを時貞の膝へ置いた。押し付けるでも、奪い返すでもない。ただ、重さを預けるように。


 「時貞。俺たちが代わりに見るんじゃねえ。茜様と見に行こう。噂話で終わらせずに、本当に行って、目で見て、手で触って——」


 時貞は笑いそうになった。茜様と見に行く。

 そんな当たり前が、もう叶わないと知っているのに。けれど剛守は、分かった上で言っている。

 目に見える同行ではない。連れて行くのだ、あの方の願いごとごと。


 「大秦……か」


 呟くと、胸の奥が嫌に熱くなる。剛守が語った、石の都、夜の灯り。

 宋の商人が“西の大国”と呼ぶ、海のさらに向こうの地。

 異国の者が自らを“大秦”と名乗ることもあるという——その響きが、姉上の瞳を軽くしていた。

 時貞は櫛を手に取った。掌に収まる小さな硬さ。螺鈿が灯を噛み、海の色を返す。姉上が確かにここにあった証拠が、指先に痛いほど明瞭だった。


 「……武士の身分を捨てることになる」


 言ってから、分かっているのは自分だけではないと気づく。

 幕府の監視。結城の名。引付衆としての立場。逃げれば追われる。

 戻れば——戻れる保証すらない。けれど、今の時貞には、その“保証”こそが空虚だった。

 守るべき秩序が、姉上の息一つ守ってくれなかったのだから。

 剛守は頷いた。


 「追ってくるなら、俺が止める。今は——行くって決めろ。それだけでいい。道中で見たものは、胸にしまっとけ。お前は……忘れねえだろ」


 時貞は喉の奥の渇きを嚥下し、櫛を胸に引き寄せた。心臓の鼓動が、螺鈿の冷たさに当たって跳ね返る。


 「……姉上の魂を、俺たちが運ぶ」


 言葉にした瞬間、決意は刃になった。切り捨てるべきものが、いくつも浮かぶ。

 名、役目、屋敷、鎌倉。けれど同時に、切り捨てられないものも一つだけ残る。

 姉上。——それだけは、捨てない。

 剛守は立ち上がり、庭の闇へ向けて深く頭を下げた。まるで、そこに姉上が立っているかのように。


 「茜様。俺たちが行きます」

 時貞も、膝を折った。礼の形を守るのは、今の自分に残された唯一の秩序だった。

 「姉上。……行ってまいります」


 雨上がりの闇は冷たいのに、胸だけが熱かった。鎮魂と冒険の契約が、そこで結ばれた。


 <次回予告>

 強面に追い詰められた謝太郎を助けた二人は、礼もそこそこに事情を問われる。大宰府の監視が張る博多で、彼の屋敷が突破口になる。

 次回「謝太郎の招き」に、ご期待ください。


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