第2話 雨止みて、櫛が光る

 雨が上がったのは、夜半を回ってからだった。屋根を叩いていた音がふっと途切れ、代わりに、庭の竹が水を落とす小さな響きだけが残る。

 奥の間では灯明が一つ、芯を細めて揺れていた。

 茜様の呼吸が、そこから先は続かなかった。

 臨終に立ち会った者の口から告げられた言葉は、音として時貞の耳に入ったはずなのに、意味だけがどこか遠い。

 姉上の胸に手を当てても、温もりはまだある。なのに、次の息が来ない。

 来るはずのものが来ない——ただそれだけの事実が、世の理より重かった。


 「……姉上」


 呼べば返る。昨日まで、そうだった。返らぬなら、返るまで呼べばよい。

 そう思って、時貞は何度も唇を動かした。けれど声は喉の奥で砕け、形にならない。

 脳裏には、昨日の姉上の口元が、無慈悲に焼き付いて離れない。


 『続きを、また』


 その語尾の息の抜け方まで、灯明が櫛の螺鈿に落とした虹の欠片まで、炭の匂いと煎じ薬の苦さまで——まるで今もその場にいるように、細部が勝手に立ち上がってくる。

 時貞のそれは、努力で覚える記憶ではない。生まれつき、一度見聞きしたものが、勝手に“写し”として心に残ってしまう。

 人が『天分強記』と称するこの力は、言葉なら言葉の順、声なら声の震え、匂いなら匂いの角まで、ほとんど欠けずに残り続ける。

 周りが「そのうち薄れる」と言う“薄れ”が、時貞には来ない。

 忘れたいのに忘れられない。忘れるという逃げ道を持たぬまま、悲しみだけが新しい刃を増やしていく。

 時貞は初めて、その才を、恵みではなく呪いとして噛みしめた。剛守は、畳に拳をつき、頭を下げたまま動かなかった。

 肩が一度、大きく上下する。泣き声は出さない。出せば、ここにいる全員が崩れると知っているからだ。

 剛守は、茜様に向ける時だけは、あの豪胆な笑いを鎧の内にしまい、礼を失わぬ声で語ってきた。その声が、今は沈黙に変わっている。

 やがて僧が呼ばれ、香が焚かれ、念仏が部屋の隅々まで満ちた。白い布で覆われた姉上の輪郭は、ひどく小さい。

 時貞は座っているのに、足元が抜け落ちたようで、床が遠い。誰かが何かを言っても、耳を通って、ただ落ちていく。涙さえ、落ち方を忘れてしまった。


 「時貞……」


 剛守が名を呼んだ。親友の声だ。だからこそ、時貞の胸の奥に残っていた最後の糸が切れた。


 「……なんで、なんでだよ。姉上は、まだ——」


 言葉にならない叫びが、畳に吸い込まれる。拳で畳を叩いても、痛みが来ない。虚脱とは、痛みすら届かぬ場所に落ちることなのだと知る。

 出棺の支度が進み、姉上の枕元のものが片づけられていく。衣、文、薬、祈りの品。

 ひとつひとつが「もう不要」と宣告されるたび、時貞の内側の何かが削られていく。

 螺鈿細工の櫛だけが、最後までそこに残っていた。灯明を受けて、静かな虹の欠片を宿しながら。


 「……それだけは」


 時貞が手を伸ばした。だが指先が触れる直前で、動きが止まった。姉上の髪を梳いた櫛だ。姉上が、異国の話を聞くとき、指で縁をなぞっていた櫛だ。

 触れた瞬間に、昨日の光景が、鮮やかすぎるほど蘇ってしまう。天分強記は、ここでも容赦がない。耐えられない。

 剛守が、息を一つ飲んだ。悲しみを噛み殺し、目を伏せ、櫛を両手で取り上げる。まるで神仏の供物に触れるように、丁重に。


 「茜様……お許しくださいませ」


 そして剛守は、その櫛を懐へ入れた。胸の内側、心臓の近く。

 誰にも奪われぬ場所へ。埋葬される直前に、姉上の最も大切だったものを連れ出すという背信を、剛守は背負った。

 背負ってでも、茜様を“ここで終わらせない”ために。

 時貞は、その動きを見ていた。止める力はない。怒る力もない。ただ、剛守の懐に消えた螺鈿の光が、闇の中で一瞬だけ脈打つのを見て、ようやく理解した。

 姉上は、物になったのではない。奪われたのではない。

 ——連れていけるのだ。


 <次回予告>

 葬列が去り、雨上がりの庭で剛守が懐から姉の櫛を差し出す。『茜様と見に行こう』の一言に、時貞は武士の身分さえ捨てる決意を口にする。

 次回「念仏の残響、旅の契約」に、ご期待ください。


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