西方見聞録 鎌倉武士、ローマを目指す

雨野うずめ

出立・博多編

第1話 世界の果てを語る夜

 鎌倉の空は、冬の名残を引きずったように低く、結城家の屋敷の瓦を鈍く濡らしていた。奥の間に漂うのは、煎じ薬の苦い匂いと、炭火のかすかな甘さ。

 病床の茜は、掛布の上に細い手を置き、指先で小さな櫛の縁をなぞっている。螺鈿の光が、灯明の揺れに合わせて一瞬だけ海のようにきらめいた。


 ――この頃の鎌倉は、将軍家を戴く武家政権の都であり、谷戸に武家屋敷と寺社が折り重なっていた。若宮大路には人と馬が絶えず、訴訟や評定の噂が市に流れる。

 都の雅より、実利と武威が空気を支配する街であった――


 「——それでございますな、博多の浜に立ちますと、異国の船が並ぶのでございます。帆は城壁のように高うございまして、板は油を吸って黒い」

 「あちらの荷には、香の木や、見たこともない玻璃の器が入っている——そう申す者もおります」


 わが友、赤松剛守は、座敷の敷居ぎりまで身を低くして座っていた。武家の作法は守っているのに、体そのものが場に収まりきらない。

 鎧は脱いでいるが、肩幅と腕の太さが、まるで戸板のように見える。大きな手が宙で動くたび、物語の景色も大きく広がっていく。

 茜は咳を堪え、笑みだけで応えた。頬は削げているのに、目だけはまだ春を覚えているように澄んでいる。


 「大秦……というのは、本当に海の向こうにあるのですか」


 その問いかけは、弱々しい声の形をしていながら、剛守の胸元をまっすぐ貫いた。

 剛守は、待っていたと言わんばかりに身を乗り出す。


 「ある——と、申す者がおります。宋の商人が語っておりました。大秦は、世界の果てにあっで、都は石ででき、道がまっすぐ、夜でも灯りが消えぬ——などと。」

 「わたくしも話半分とは存じます。されど、聞いておりますと胸の奥が騒ぎますゆえ」


 茜の指が櫛から離れ、掛布の上で小さく握られる。まるでその騒ぎを、手の中に閉じ込めるように。

 その傍らで、結城時貞は几帳の陰に座し、膝の上に文束を置いていた。

 引付衆として回ってくる訴状の写し、証文の控え、裁許の案。紙の繊維の向こうに見えるのは、武家の世の骨組みだ。

 彼は淡々と筆を運び、必要な語句を迷いなく選び取る。墨は濃すぎず薄すぎず、線は揺れない。

 だが、耳だけは、剛守の話に吸い寄せられていた。

 大秦。世界の果て。異国の船。香木。玻璃。——剛守が口にする一語一語が、時貞の内側に沈んでいく。

 水を吸う布のように、残さず、形を崩さず。忘れるという逃げ道を、彼は昔から持たない。

 姉上が笑うたび、時貞の胸のどこかが痛む。

 笑うために息を使う、そのこと自体が、姉上にとってどれほどの負担なのかを知っているからだ。

 知っていても、止める言葉を選べない。剛守の語りが姉上の灯を保つなら、時貞はその灯の周りに風除けを立てるしかない。


 「剛守、今日はどの辺りまで行けた?」


 時貞が、筆を止めずに問いを挟むと、剛守は少しだけ驚いた顔をし、それから豪快に笑った。


 「おう、時貞まで乗ってきたか。今日は海の向こうの話だけじゃねえ。山を越えて砂の海を行く隊商の話も聞いた。馬じゃねえ、背に瘤のある獣で——」


 茜の目が、少年のように丸くなる。


 「それは……ラクダ、というのでしょうか」

 「左様でございます、茜様。……さすが茜様、言葉をよくご存じで」


 茜は小さく首を振り、枕元の櫛に視線を落とした。


 「知らないことばかりです。けれど、知らないものを思い浮かべると……少し、体が軽くなる気がします」


 その言葉に、時貞は墨を含ませる手元をわずかに強く押さえた。紙の上に黒が滲み、慌てて筆を運び直す。

 たったそれだけの滲みが、取り返しのつかないものの予告に思えて、喉の奥が乾いた。

 剛守は、姉上の顔色の変化を見逃さない。武者の眼は、敵の刃だけでなく、味方の息の乱れも読む。

 話を続けながら、間合いを変えるように声を落とした。


 「……まあ、全部が真であるとは申せませぬ。されど、茜様。茜様がお望みなら、わたくしはいくらでも拾ってまいります」

「博多でも、宋の坊主でも、どこへでも参って——」


 茜は、すぐには返事をしなかった。息を整え、ゆっくりと頷く。

 灯明の光が、櫛の螺鈿にまた波を作る。

 時貞は、文束の末尾に目を落としながら、視界の端で姉上の横顔を焼き付けた。紙の上の言葉は、裁きのために使われる。

 けれど今、彼が覚えておきたいのは、裁きではない。姉上が「世界の果て」と呼んだものに向けて、目を輝かせた、その瞬間の温度だ。

 雨音が少しだけ強まった。屋敷の軒を打つ音が、遠い海鳴りのようにも聞こえる。茜は目を閉じ、まるでその海鳴りに耳を澄ませるように微笑んだ。


 「……続きを、また。明日でも、あさってでも」

 「畏まりました、茜様」


 剛守は深く頭を下げた。時貞は、筆先をそっと置く。

 いつもと同じ一日。けれど、同じであることが、すでに奇跡に近いのだと、彼だけが知っていた。

 

 <次回予告>

 雨が止んだ夜半、灯明の下で茜の呼吸が途切れる。返らぬ「続きを、また」が時貞の記憶を刺す。剛守は螺鈿の櫛を懐へ——その光は闇で脈打った。

 次回「雨止みて、櫛が光る」に、ご期待ください。


 ▶この続きは本編へ/応援・★評価・フォローで次話の励みになります。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る