優しい殺意

 気付いたとき、目の前は美しいほどの鮮血に染まっていた。どろどろで生緩いそれは、鉄の匂いを放っていた。どんどん広がっていく、血の海という形容がまさしくな量の血液は、僕が涙を少し溢したくらいじゃ、ちっとも薄まらなかった。そうわかっていても止められない涙を拭いながら、僕は今日までの日を思い出していた。


 初めて君とあった日。君は笑っていた。鈴のように笑う君を、僕は素直に尊敬していた。勉強ができて、仕事ができて、明るく優しく、その上笑い顔があんなにも美人ときたものだ。多くの人間に好かれるのだろう。尊敬と同時に、大変そうだな。そう思った。

 知り合ってからしばらくもしないうちに、君に彼氏ができた。彼氏は知っている人間だった。そいつは自己中心的でプライドが高い、自分のことを何者かに成れると思っているやつだった。別に、それを否定はしない。ただ、カタログスペックと比べて、それが高望みだと思いはしたけど、否定するほどではない。なぜなら僕はその人と知人というだけで、友人ではなかったから。ただ、そんな彼のことを君は楽しそうに語るから。幸せならいいんじゃないかと思った。僕の物差しでは、君にはもっといい相手がいて、その知人ではもったいないと思ったけど、本人が幸せなら、それは正解の一つなのだろうなと思った。だから、一回を除き、僕は君達の関係に口を出さないよう気を付けた。

 君が泣きながら僕と飲んだ日、僕はやっぱり、くらいにしか思わなかった。想像通り、その関係は君を傷つけるだけに終わった。想像より酷かったことは、知人が浮気していたことくらいか。まあ、もとより傍目に見て破綻している関係だったから、時間の問題だとは思っていたが。君は死にたいと言った。僕が君のことを人として好きになったのは、この頃からかもしれない。

 しばらくは君と他愛ない会話をする日々が続いた。ほんとに他愛ないものだった。たまに飲みに行った。酔った君が、僕に「彼女は大切にしなよ。」と言うところまでがセットだった。僕はこれ以上ない程彼女を大切にしてるけど、そんな彼女とそろそろ別れそうだと言うことは言うほどのことでもなかったので言わなかった。気付いたら君にもまた彼氏ができた。今度は僕の知らない人だ。重要なのは、君が楽しそうに彼氏のことを話していることだった。君が幸せなら、僕は友達としてこれ以上ない程満足だった。惚気話は毎週一回はしてくれた。酷いときは毎日だったかもしれない。僕はそれが嬉しかった。今度はきっと君は赤い糸で結ばれた相手を捕まえたのだろうと、心から祝福した。

 恋愛というのはきっと難しいもので、君から聞く惚気はだんだん愚痴へと変わっていった。惚気の中に、1ヶ月に一回愚痴が混ざるようになり、二週間に一回愚痴が混ざるようになり、毎週愚痴が溢れるようになり、酷いときは毎日だったかもしれない。僕はそれが悲しかった。彼氏のことは知らない人だったけど、君がその人を彼氏にしてすぐくらいに話していた人物は、理想的な男で、非の打ち所なんてない人間だったから。彼氏の化けの皮が剥がれたのかもしれない。彼氏が君のことを飽きたのかもしれない。単にもともと、君が盲目だった可能性もある。でも僕は愚痴を聞く度に、最後は必ず、仲直りできるといいと言った。本心だった。あの頃の幸せそうな君から惚気を聞く時間が、僕は好きだったのだから。

 そしてある日、飲みに誘われた。一対一だから、概ね察していた。案の定、そういう話だった。彼氏はもう、君のことを好きかどうかわからなくなった、そう言ったらしい。可哀想に。泣きながらお酒を飲む君に釣られて、僕まで涙が出てきた。好きな人が傷ついているのを見るのは、心地好いものではない。僕にしておけばいいのに。そう思った。口には出さなかった。僕は僕なんかのことを好きになった君を好きでいられるかわからなかったから。代わりに僕は愚痴を一杯聞いて、たくさん慰めた。泣き腫らした顔の彼女は、相変わらず美人だった。

気付いたらやり直していた。女々しい。僕はそう君のことを貶したくなる自分を嫌いになった。もちろん女々しい君のことも少し嫌いに、というか、がっかりした。相手のことはよく知らないけど、くそやろうなのだと認識を改めた。愚痴の頻度はやっぱり変わらなかった。ほぼ毎日のように君から愚痴を聞く。なのに彼氏から離れられない君を見ていると、どんどん可哀想に思えてきた。それでも僕は一途だった。一途に友人の幸せを願っていた。

「死にたい。」

僕は彼女に呼び出された。一人暮らししている彼女の部屋は生活感があって、きっと彼氏に見せないのであろう自分の完璧じゃない姿を友人として僕に見せてくれることを、どんな感情で僕が受け止めたのか覚えていない。

「死にたいんだけど、どうすればいいかな。」

困ったように笑う君も可愛くて、僕はわりと君の外見的容姿に惹かれただけで、存外中身はなんでもいいのかもしれないと思った。

「ほんとに死にたいの?」

僕は念のためそう聞いた。君は看護師だった。だから、誰よりもその言葉の重さを理解していると知っていた。実際、彼女がこの言葉を使うのを聞くのは、これで二回目でしかなかった。僕の元カノなんて毎日のように言っていたのに。

「うん。死にたい。」

「じゃあ、殺してあげるよ。」

仕方ないな、特別だよ、そういう声のトーンと微笑みをつくって、僕はゆっくり立ち上がる。

「ほんと?ありがとう。」

君は物憂げに瞬きをするから、僕は君のキッチンから包丁を取る。どうしてこう、世界というのは君みたいな人間に厳しいのだろうか。僕はそんなどうしようもない憤りを持って、包丁を握りしめた。

「ねぇ。僕はそんな思いさせなかったよ。」

僕のその言葉で、ようやく君は振り向いてくれた。

「……は。」

あり得ないものでも見たかのような、そういう感じだった。まるで、身に覚えのない悪意に晒されているかのような。僕は気にせず刃物を振り下ろす。なんでかわからないけど、君が避けたせいで、包丁は足に刺さった。君の悲鳴なんて、聞きたくないのに。

「どうしてこんなことをするの!」

彼女は悲痛な声でそう叫んだ。そんな声を出さないで欲しい。僕だって悲しくて痛くて苦しくって、苦しくって苦しくって苦しくってこんなことしてるのにさぁ!

「どうしてってそれは……」

君が望んだからじゃないか。君が望んで、僕が望んだから、こんなにくそみたいにどうしようもない世界で、踠いてるんじゃないか。

「死にたいって……。」

僕は言葉を続けようとしたけど、君はすごく怯えている顔をした。なんでそんな顔をするのかわかんなかったけど、もう僕が好きな君はいないんだと感じた。大きくため息をついて、でも今さら辞めることもできなくて、僕はまたゆっくり君に近づいたんだ。僕は深呼吸した。殺してあげないと。こんな辛く苦しいだけの世界。君が死にたいと感じる世界に、生きている価値はないよ。君も僕も。僕は今度こそ失敗しないように、ゆっくりと君を組み伏せた。

「僕は君のことを、殺せるほど愛してたんだよ。」

そして僕は君の首を切った。噴き出す鮮血が余りにもドラマチックすぎて、まるで、一瞬が数秒にも数十秒にも引き延ばされた、映画の一コマのような、そういう迫力があった。僕は滴る血液で手を染めながら、死に逝く君のために涙を流した。


 死にたい。君は確かにそういった。だからこれは、僕が君に示せる、唯一の感情だった。一人のために、こんなにも優しさを行動に移すことができる人間がいるだろうか。死ぬほど貴方を愛してますなんて、簡単だ。死ぬだけだ。そんなこと誰でもできる。だからこれは、僕だけが示せる、とびっきりの愛だった。恋愛でも友情でも、呼び方なんてなんでもいい。僕から君に送る優しい殺意だった。

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