第2章 静かな救済

休みの日、俺は図書館にいた。

母さんがいないと、数学を教えてもらえない。

だから、静かな席でひとり、参考書とにらみ合っていた。


隣に座った男がふいに声をかけてきた。


「最近、よく来てるね。勉強? 俺も。

 一緒にやらない?」


「いいよ。でも、全然わからないんだけどな。」


「俺も。」


そして、そいつは軽く笑った。

「俺、翔。澤野翔です。よろしく。君は?」


「俺は藤井綾斗。……綾斗って呼んで。」


「じゃあ綾斗な。俺は翔で。」


それだけで、空気が少しだけ軽くなった。


しばらく一緒に問題を解いていると、

翔が手元の数字を指して言った。


「これはこうするんだよ。」


「ありがとう。わかりやすい。」


「そうか?」


そんなやり取りを何度か繰り返しているうちに、

俺たちは自然に肩が並んでいた。


「俺、工業高校なんだけど……。」


ぽつりと言うと、翔は紙から目を離さずに言った。


「ふーん。それで?」


その一言が、妙に胸に響いた。


「俺はあそこだよ。まあ進学校だけどさ。

 勉強に関係なくね?」


翔はトップの進学校の生徒だった。

けれど、その事実を誇るでも、隠すでもなく、

ただ淡々と告げただけだった。


嫌なところは何もなかった。

むしろ、驚くほど柔らかい奴だった。


「勉強、違うのにえらいな。

 わからんかったら俺で教えられるところは教えるよ。

 別にマウント取ってるわけじゃない。

 俺も勉強になるし。」


「……ありがとう。」


本当に、ありがとうと思った。


誰かが“対等に”話しかけてくれることが、

こんなに胸にしみるなんて知らなかった。


だんだん、翔と一緒に勉強することが多くなった。

学校が終わると図書館へ行き、翔と問題集を広げる。

家に帰れば、母と机を挟んで勉強した。


翔との勉強は、なぜだか少し楽しかった。

わからない式を笑いながら教えてくれるその雰囲気に、

救われている自分がいた。


ある日、翔が何気なく言った。


「綾斗ってさ、勉強好きなんだな。

 大学に行きたい理由とかあるの?

 まあ“勉強したい”からか。」


「……実はさ。好きな子がいて。」


自分でも驚くほど、すんなり言葉が出た。


翔は目を丸くした。


「え? マジか。すげーなそれ。」


少し照れながら、俺は天使——瑠璃さまの話をした。

どんな風に初めて見たか、

どんな衝撃だったか、

どれほど手が届かない存在か。


翔は最後まで黙って聞いていた。

俺が話し終えると、ぽつりと言った。


「そんなに好きになれるって、いいよな。

 俺は普通に行きたいだけなんだ。

 なんか……そういうの、憧れるわ。マジで。」


その言葉は、まっすぐだった。

からかう気配も、軽口もない。


ただ、うらやましそうに。

ただ、まっすぐ。


胸の奥がじんと熱くなった。


誰かに“本気の気持ち”を話したのは初めてだった。

それを笑わずに、肯定してくれる人間がいるということが、

こんなにも救いになるとは思わなかった。


俺の偏差値は低いままだった。

けれど、最初よりはましになった。


そう、最初は——

何も解けなかった。


白紙。

沈黙。

その繰り返しだった。


それが今は、

ほんの少しだけ、解けるようになっている。


よかった。

毎日勉強したから、できたんだ。


学校の休み時間も問題集を開き、

帰れば母が待っていて、

図書館では翔が隣に座っていた。


翔が応援してくれてる。

その事実だけで、勉強が少し楽しかった。


学校では馬鹿にされた。

「無謀だ」って笑われた。


でも、解ける問題が一つ増えるたび、

胸の奥が少しだけ温かくなる瞬間があった。


——無能。


その二文字は、今でも刺さる。

刺さって、抜けない。


——無謀。


その言葉も刺さる。

じわじわと、静かに、底のほうへ沈んでいく。


落とす言葉は、声の大きさじゃない。

囁きのような調子で、深く深く沈む。


わかっている。

現実は簡単じゃない。


それでも——

俺は、ページを閉じなかった。


図書館で、今日も翔と二人で勉強していた。

鉛筆の音が静かに響いて、ページをめくる音だけが流れていた。


そんな時だった。


——瑠璃さまが来た。


気づいた瞬間、空気が変わった。

吸い込んだ呼吸が、少しだけ澄んだ。

そこだけ、世界の色が変わったみたいだった。


光の濃度が違う。

静けさの質が違う。


翔が小さくつぶやいた。


「あの子か……。」


「うん。」


声が震えないようにするのが精一杯だった。


俺の世界の中心が、

するりと彼女に向いていく。


足音ひとつ、紙の擦れる音ひとつまで、

全部が鮮明に聞こえる。


翔は視線を外さず、俺の横顔をちらりと見た。


「確かに……空気が違うな。」


翔の声は低く、小さく、驚きが混じっていた。


俺は返事ができなかった。


胸の中で何かが膨らんで、

喉の奥がきゅっと閉じた。


彼女は、何も変わらず静かに本を選んでいるだけなのに。


それだけで、

俺は立ち上がれないほどの衝撃を受けていた。


彼女は気づいていなかった。

俺の存在など、最初からないかのように。


ただ、静かに本を読んでいた。


その姿は、やっぱり天使だった。


光が、ページをめくる指をなぞり、

淡い輪郭を描いていた。

翔が小声で言った。


「行かないのか?」


俺は震えていた。

指先が、知らないうちに冷たくなっていた。


——無能。


その二文字が、頭の奥で反響していた。

こびりついて、剥がれない。

俺を落とす。

落とす。

落とす。


深い。

深い。

底のない井戸に引きずられるように、

心が沈んでいく。


息ができない。


どうしてだろう。

ただ、好きな人が目の前にいるだけなのに。


足が動かない。

喉が塞がる。

視線が定まらない。


行けない理由は、ひとつしかない。


——俺には何もない。


天使のいる世界の端で、

ただじっと沈んでいる自分がいた。


一瞬、目が合った気がした。


あ——。


それだけで、胸の中心が凍った。


無理だ……。


どん。

コロコロコロコロ。


音にならない音が、内側で転がっていった。

俺の中にあるものが、

粉みたいに砕けていった。


掴んでいたはずのものが、全部こぼれ落ちた。

拾おうとしても、もう形がない。


俺はそのまま立ち上がることもできず、

しばらく座ったまま呼吸だけしていた。


——何をしてるんだ、俺は。


気づけば、帰宅していた。

何を考え、どんな道を歩いたのかは覚えていない。


母さんと勉強していたが、

数字がまったく頭に入らなかった。


「母さん、何か……いや……なんでもない。」


「どうしたの? 集中してないけど。

 なんかあったの?」


「……何も。」


言葉が薄かった。

自分の声に自分が驚くほど、力がなかった。


母は、ページをめくる手を止めずに言った。


「母さん、何か……いや……なんでもない」

「どうしたの? 集中してないけど。なんかあったの?」

「……何も」


言葉が薄かった。

自分の声に自分が驚くほど、力がなかった。


母はページをめくる手を止めずに言った。

「本当に、大丈夫?」


「まあ。」


——現実って甘くないな。


俺はそう思った。

その瞬間、胸の奥で何かが


ずしん。


と響いた。


抜けない。

刺さって、抜けない。


喉の奥が固まって、声が出なかった。


母は鉛筆で式を指しながら、ゆっくり言った。

「勉強して、合格したら少しは違うわ。

 やり遂げるのよ。

 やれば、何とかなるから。きっと。

 欲しいものは手に入れるの。」


その声は、やさしさでも励ましでもなく、

ただ“事実”としての強さがあった。


でも今の俺には、遠すぎた。

その言葉に届けるほど、

自分の心が残っていなかった。


俺は、眠れなかった。

天井を見つめても、目を閉じても、

胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。


結局、翔にメッセージを送った。


「起きてる?」


すぐ既読がついた。


「起きてる。どうした?」


「なんか……寝られなくて。」


「あるよな、そういうの。

 ネガティブ祭りか?」


「うん。」


「今じゃなくてもいいんじゃね?

 結果なんてすぐ出ないし。

 俺、彼女いない歴年齢だから偉そうに言えないけどさ。」


スマホの画面の光が、

暗い部屋の中でやけに眩しかった。


「そういうものなのかな?」


「わからんけど。

 でも、寝れない時は寝れないし、

 考えてもしんどくなるだけ。」


「……ありがとう。」


「どういたしまして。」


短いやりとり。

でもその短さが、逆にありがたかった。


やっぱり翔は、いいやつだ。

無理に励まさないし、過度に突っ込まない。

軽口でもなく、深刻ぶるでもなく、

ちょうどいい距離でいてくれる。

なんか……いいよな、あいつ。



翔が小声で言った。


「大丈夫か? 寝てないんだろう……。」


「いや、一応、学校で寝た。

 なんか……気持ち悪ってなって……。」


「マジか。大丈夫か?

 家来るか?」


「え?」


「今日は休みにしよう。行くぞ。」


翔は、言葉より先に動いた。

そのまま俺を引っ張るように図書館から連れ出した。


着いた家は、広くて静かで、空気が澄んでいた。

玄関の匂いから、俺の家とはまるで違った。


「ただいまー。友達連れてきた。」


「こんにちは、お邪魔します。」


「こんにちは。どうぞ上がって。」


出されたのは、食べたことのないクッキーだった。

紅茶の香りがやさしく広がった。


「なんか……お前んち、すげーな。

 うちと全然違う。」


「そうか? 似たようなもんだよ。

 家なんて、ご飯食べて寝るだけ。」


翔は軽く笑った。


俺には到底そうは見えなかった。

テーブルの上に並べられた皿も、温かい照明も、

窓から見える景色さえ、俺の知る世界と違っていた。


「クッキーめっちゃうまいし。」


「ああ、それ。おいしいんだよ。

 たまにもらうんだよ。ついてたな。」


「マジか……。」


「俺んち、こんなだからさ……なんていうか……

 親、干渉してくるんだよな。」


翔は紅茶のカップを回しながら、少しだけ目を伏せた。


「でもさ、たまには遊びに来いよ。

 俺、あまり友達いないんだよね。」


「そうなの?」


「ああ。あまり。

 俺、学校では少し浮いてるっていうか……

 優等生あるあるだよ。」


「自分で言うか?」


「いや、本当なんだって。見えないだろうけど。」


翔は気さくで、頭が良くて、

俺とは全然違う“世界”の人間に見えた。


でもその笑い方だけは、

俺と同じ年の男の子の、それだった。


「でも、本当に綾斗はイケメンだよな。

 母さんが後で盛り上がるぞ。」


翔が笑った。

なんでもないようなその言葉が、

なぜか胸にあたたかく響いた。


翔のお母さんが、そっとキッチンから顔を出した。


「紅茶、大丈夫だった? 口に合ったかしら。」


「大丈夫です。おいしいです。」


本当にそう思ったけれど、

“紅茶の種類”なんて、正直よくわからなかった。


「アールグレイ系のにしたんだけど……

 もしかして苦手だったらって思って。」


——アール、何?


完全にちんぷんかんぷんだった。


翔が笑って言った。

「母さん、大丈夫だって。

 苦手だったらアッサムとかコーヒーとか適当に出すから。

 おいしいって言ってただろう。」


「よかった。

 あるものしかなくて申し訳なかったわ。

 早く言ってくれたら、おやつ買ってきたのに。」


柔らかい声だった。

怒りも圧もない。

ただ、やさしい。


「はいはい、母さん。邪魔しないでー。」


翔が軽く追い返すと、

お母さんは笑って部屋を出ていった。

その背中を見送ってから、俺はこっそり言った。


「……お母さん、上品だな。穏やかそうだし。かわいらしいね。」


翔は目を瞬いた。


「そうか?」


「うちの母は……なんていうか、強いんだよ。

 現実的。

 強さで勝負だな。」


言いながら、自分の言葉の重さに気づいた。

上品でも、やわらかくもない。

でも、芯がある。

何があっても折れない。


そういう母にずっと守られてきた。


だけど今は、

この柔らかい空気の中にいるのが、

少しだけ胸にしみた。


違う世界を見ているようだった。


「あのさ……マジでこの紅茶、いい香りじゃないか?」


俺はカップをそっと近づけて、

鼻先でゆっくり吸い込んだ。

いつもの家の湯気とは違う、

甘くて、すっと広がる香りだった。

翔は鉛筆をカチカチしながら言った。


「そうか? まあ、紅茶はいい香りだ。

 俺はこれ好きなんだ。飲みやすいから。」


「他にも色々あるしさ。今度来たら違うのにしよう。

 ちなみに全部、母さんの趣味だ。」


「へぇ……。」


知らない味と匂いに包まれて、

胸のざわつきが少しずつ落ち着いていくのを感じた。


ページを開き直して、

問題を一つ、また一つと解いていく。


鉛筆の音、紅茶の香り、

窓からの薄い光。


ゆっくり、ゆっくり、呼吸が戻ってくる。


「なんか……落ち着いてきたかも。」


ぽつりと言うと、翔が微笑んだ。


「よかった。」


それだけで、

胸の奥がじんわりと温かくなった。


翔が、紅茶のカップを持ったまま言った。


「うちの親は、なんていうか……制限してくるから。

 なんか、きついんだよね。

 親の仕事の関係もあるのかもしれないけど。」


翔は視線を落として、息を吸った。


「一応、うち会社しててさ……だから……色々ある。」


言葉の端が、少しだけ重かった。

俺もカップを置いて言った。


「うちは、制限とかはないかも。

 でも、正直……貧乏なんだよね。

 ひとり親だしさ。」


翔が一瞬だけ顔を上げた。


「そうなんだ。……色々あるよな、ほんと。それぞれ。」


静かな理解の間があった。

派手ではないけれど、深い間。


「金の面とか……気を使うんだよね。一応な。」


俺は苦笑しながら言った。


翔はうなずいた。


「うちは金はそうでもないけど、他の面で気を使うよ……マジで。」


そして、少しだけ声を落とした。


「“こうあらねばならない” があるからね。

 家では一応、“僕” って言わないといけないんだよね。

 基本そうなの。……そういう感じ。」


翔の表情に、微かに滲む疲れが見えた。

いつも気さくで明るい翔が、ふと影を見せた瞬間だった。


俺は何も言えなかった。

お互い違う世界に生きてるのに、

なぜか似た息苦しさを抱えている気がした。


翔が、ふと遠い目をして言った。


「なんかさ……変なこと言っていい?

 俺、綾斗といると楽なんだよね。」


その声には、いつもの軽さがなかった。

押し殺したような、小さな本音だった。


「学校の子には気を使うし。

 優等生の“僕”じゃないといけないし。

 常にトップ層にいないといけない。」


翔はカップを見つめたまま続ける。


「綾斗と友達になれてよかったって、普通に思ってるよ。」


胸の奥がじん、と熱くなった。

そんなふうに言われると思ってなかった。


「俺もだよ。

 学校、最近息が詰まるんだ。

 馬鹿で無能なイケメンチャラ男だったからな、俺。」


自嘲のつもりで言ったが、翔は真剣に聞いていた。


「確かに。イケメンチャラ男って言われてもわからなくもないな。」


「おい。」


「いや、悪口じゃなくて。

 イケメンだし、コミュ力高いし、陽キャって感じだったんだなって。」


翔は笑った後、少しだけ表情を緩めて続けた。


「でも、今は……普通のイケメンって感じかも。

 チャラ男感はあまりないよ。」


「そうか?」


「うん。落ち着いたっていうか……

 たぶん、ちゃんと想ってる子ができたからじゃない?」


その言葉に、心臓がどくんと鳴った。

反論できなかった。


翔はわかっていた。

俺が今、必死に勉強している理由を。


そして、笑いながらも、ちゃんと支えてくれているのを感じた。


「俺、めっちゃ遊んでてさ。

 女はずっといるタイプだったんだよね。

 めっちゃモテるからな。」


言いながら、昔の自分をどこか遠くから眺めているような気がした。


翔が呆れたように笑う。


「自分でモテるっていうのすごいな。」


「まあ、本当だからな。」


軽口に聞こえるけれど、

そこにはもう“過去の俺”しかいない。


今の俺は違う。


「でも……天使は高嶺の花すぎだよ。」


ふっと言葉が漏れた。


翔はその言い方に反応して、真面目な顔になった。


「確かに……すごいよな……。」


静かな間が落ちた。


綾斗が遊んできた過去も、

翔の優等生としての窮屈さも、

全部どうでもよくなるくらいに——


あの天使は遠い。


笑って言っているのに、

綾斗の胸の奥には、

“届かない”という絶望が静かに沈んでいた。

それを翔はちゃんと感じ取っていた。


「でもさ。」

翔は紅茶を一口飲んで、静かに言った。


「努力して、大学受かって……

 イケメンで、一途だったらさ。

 “あり”って思われるかも……なんとなく。」


その言葉は、ふざけているようで、ふざけていなかった。


「本当か?

 俺、それならもっと努力する。」


声が少し上ずった。

自分でも驚くほど、必死だった。


翔は肩をすくめる。


「いや、イケメンだしさ。」


「そこかよ。」


「いやいや、重要だろ?

 でも……俺が思うにだな……

 一途なのが、いけそうな気がするんだよ。

 “なんとなく”だけどな。」


“なんとなく”。


誰かの人生を左右するには軽すぎる言葉。

でもその軽さが、綾斗の胸にすっと入った。


ほんの少しだけ、心が浮くような感覚があった。


“もしも”が、ほんの針先ほど生まれた。


諦めではなく、

絶望でもなく、

まだ遠いけど、

まったく届かないわけでもないかもしれない……と。


その小さな可能性が、

綾斗の胸の奥で静かに震えた。


翔が紅茶を一口飲んで、少し考えるように言った。


「いや、多分どっちかっていうと――だぞ?

 俺が言うのもなんだけど……

 あの子ってさ……俺の女バージョンみたいな感じがするんだよね。」


「は? 一緒にすんな。」


反射的に言っていた。

違う、と否定しないと苦しくなる気がした。


翔は笑って首を振る。


「いや、顔とかじゃなくて。

 なんか……似たような感じがするっていうか……。」


「どういうことだよ。」


翔は少し真面目な顔になって続けた。


「多分、自分で言うのもなんだけど……俺って優等生な。

 で、彼女も優等生だろ?

 多分、裕福育ちだしさ。」


言いながら、ゆっくり視線を落とした。


「育ちがあの子と俺はさ、家でも格差あるかもしれないけど……

 ちょっと似てる、っていうかさ。

 だから……なんとなくだけど、そう思うんだよ。」


翔の声は淡々としていた。

けれど、その淡々さが逆に説得力を持っていた。


俺は思わず言っていた。


「……確かに。一理あるな。」


その瞬間、胸の奥がざわついた。


似てる。

翔と瑠璃。

育ちも、優等生なところも、空気の透明感も。


その“似ている”という事実が、

綾斗の心に深い影を落とした。


自分はそこにいない。

そこに入れない。

同じ位置に立てない。


でも――

翔の分析は正しかった。


だからこそ、綾斗の胸には

苦しさと納得が同時に押し寄せてきた。


翔は、テーブルの上のカップを指先で軽く弾きながら言った。


「だからさ……

 俺が綾斗と友達になったってことは、

 あの子も好きになる気がしたんだ。」


「……は?」


不意を突かれて声が裏返った。


翔は少し照れたように笑って続けた。


「それにさ。俺は女の子が一途に、そこまで想ってくれたら……

 絶対好きになると思う。きっと。」


紅茶の香りが静かに漂っていた。

翔の声はふざけているようで、全然ふざけていなかった。


「家とか、育ちとか、何も関係ないと思うし。

 俺みたいなタイプなら……

 むしろそういう“真っ直ぐさ”に憧れる気がするんだよ。」


翔は少しだけ視線を落とした。

頬に微かな赤みが差していた。


「ちょっと……ロマンチックだろ?」


俺は息を飲んだ。


「……そういうものなのか?」


「たぶん……。」


翔は頭をかいて目をそらした。


「言ってて恥ずかしいけどな。」


その照れた横顔が、なぜか真剣で、

胸の奥がじんと熱くなった。


「俺、本気出す。」


声に、迷いがなかった。

自分でも驚くくらい、まっすぐだった。


翔は目を丸くした。


「マジか。」


「マジだ。」


言葉が空気を切り裂いた。


その瞬間、胸の奥で何かが“音を立てて”動いた。

これまでずっと重りみたいに沈んでいた塊が、

ふっと浮いた気がした。


怖さは残っている。

不安もある。

でも、それ以上に——


やってみたい


その気持ちが、確かにそこにあった。


「……やっぱ、好きなんだな。」


翔の声は、茶化しじゃなかった。

静かに、温かく、受け止めていた。


「好きとか……そんな簡単な言葉じゃないかもしれないけど。」


俺は少しだけ視線を落とした。


「……でも、追いかけたい。」


自分で言葉にして、

胸が熱くなった。


翔はふっと笑った。


「じゃあ、決まりだな。

 やるしかないだろ。

 俺も手伝うから。」


その言葉に、

胸の奥がじんわりと熱く広がった。


こうして俺は——

初めて自分の人生で、“本気”を選んだ。

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あの日、天使がこちらを見た。 桐原悠真 @yumastory

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